名もなきもの

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 港の端に今は使われていない倉庫がある。闇夜の中、彼はずっと穴の空いた屋根から空を眺めていた。  ある夜、その倉庫に複数の人間が入ってきた。男たちは抑えた声で何かを話しているが、彼には人語は理解出来ない。彼は生まれて一年にも満たない子犬だからだ。  ただ、こんな暗い場所に人がやってくるのが奇妙に思えたし、何よりも怖かった。  震えながら隅の物陰に隠れているうちに、倉庫から足音が遠ざかっていく。彼が恐る恐る顔を出すと、そこにはまだ一人の男が残っていた。 「食うか」  犬に気付いた男が、ゆっくりと近づいてきて、一切れのハムを鼻先に差し出してきた。彼にとっては久しぶりに近づいた人間だったが、空腹からくる生存本能が、一時的に恐怖をかき消した。 「相当腹が減ってたんだな。……お前捨てられたのか?」  ハムを貪るように食べる子犬に、男が話しかけた。 「見た目は悪くないのにな。誰かに拾ってもらえよ」  そう言って彼は子犬の目の前にしゃがみ込むと、手を差し伸べた。子犬は怯えて後退りする。その首には、かつて人の手に飼われていた証である首輪がついていた。
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