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「先輩、せんぱいってば。ほら、あそこのパンケーキ食べに行きましょうよ! せーんーぱーいー!」
世間で言う夏休みの終わりの日。今年は休日。その午前11時。
突然のピンポンからのお出かけがこいつと一緒か。
はあ。
なんの冗談だか。
「林原、おまえ彼女いないの? なんで休みにわざわざ俺んとこなんかくるの?」
「先輩と一緒で彼女はいませんってば。知ってるくせに。あのですね、パンケーキ一人で並ぶ気持ち考えたことあります?」
「ないね」
「ですよね。ちょっと想像すると涙が出ます」
俺は無言で歩き続けた。
お出かけはいいんだ、お出かけは。
ちょっと買い物でも行こうと思っていたから。
でもまさか、まさに出かけようと靴を履いたところでピンポンがくるとは思わないだろう。玄関をあけたらまさか、会社の後輩が立ってるなんて思わないだろう。
「先輩、ほら、名前書きますよ。先輩の電話番号書いちゃいますよ?」
「プライバシーの侵害」
「ね、嫌ならほら、並びますよ」
女子だらけの店の前で男の二人連れ。
ピンクやブルー、グリーンのカラフルなパステルカラーのバルーンが店の前でおいでおいでと揺れている。
窓から見える店内は明らかに女子のすみかで、男の二人連れで入店なんて断られそうだ。
そんなことを考えている間に、入店待ちの名前を記入するボードの前で林原が立ち止まった。
片手で俺のシャツの裾をつかみ、片手でボードに名前を書き始める。
はあ。
迷惑なやつだ。
楽しげに鼻歌をうたう林原の横で、俺は渋々入店を待つ列に並んだ。
*
「うまっ! これ! うんまい!」
鼻をひくひくさせて林原が大声をあげた。
「ちょ、おまえ声が大きい」
しいっと人差し指を口元にやって俺は眉をひそめた。
「だって、せんぱい、これ、うまっ!」
わかる。
わかるさ。
ふわっふわのとろっとろ。みるからにおいしそうな分厚いパンケーキ。
まわりには砂糖がまぶしてあるけれど、中心にはホイップクリームが山盛りに。
その一番上には大粒の栗が。
ホイップクリームの隣には栗のペーストが。
わかるさ。
これが絶対おいしいってことは、食べなくてもわかるさ。
ま、食べるけど。
パンケーキを食べる男二人連れ。
周りの女子達の視線が気になると言えば気になるけれど、店内に入るまで並んでいたときにすでに視線を浴び続けていて、もうどこからでも見てくれ、と言う気持ちになっている。
やっと席に座れて注文したのだ。とことん味わってやる。
パンケーキにフォークを深く刺し、大きく切る。口いっぱいのサイズのパンケーキにクリームをたっぷりのせる。そしてそれをそのまま口に運んでみれば。
「うまっ!」
「でしょ!?」
林原が目を輝かせて俺に応えた。
周りの女子達の視線が気になると言えば気になるけれど……まあいいや。
本当にまあいいや。
パンケーキがうまい。
テーブルの向かい側が林原ってのがいまいちだけれど、まあいいや。
相変わらず鼻をひくひくさせてもぐもぐ食べている林原の顔を見ていると、なんだかそういう姿をずっと昔に見たことのあるような、不思議な気持ちになってきた。
「タロウ」
「わん」
ふと口から出ていた名前。
タロウ。昔実家で飼っていた犬。
こんなふうに鼻をひくひくさせてたな。
おいしいおやつをやると特に。
タロウ。濃い茶色で足だけは白色の、かわいい柴犬だった。
俺がテストで悪い点をとったり友達と喧嘩したり。
親に怒られたりして落ち込んでいるとき。
こんなふうにタロウは俺をなぐさめてくれたんだよな。
一緒にテーブルの影にかくれたり、一緒におやつを食べたり散歩に行ったりしながら。
……じゃなくて。
「なんでおまえ、わん、って。犬かよ」
「そうですよ、俺、イチタロウです」
澄ました顔で返された。
そうだった。
こいつの名前、はやしばらいちたろう、だ。
「先輩、犬を飼ってたでしょ?」
「ん? 言ったことあったっけ?」
その問いには曖昧な表情を返して、林原はパンケーキの最後のかけらにフォークを刺し、皿に残ったクリームをぐいっと拭き取るようにすると、そのまま口へ運んだ。
そういう仕草もタロウがしていたな。
ぺろぺろとおやつの皿をなめて、もっと、とねだって俺の指をなめて。
俺はたくさんあげたかったけど、母さんにとめられたんだ。
食べすぎはタロウにとってよくないのよって。
「もっと」
「え?」
「もっと食べたいなあって。先輩、残すんですか? 残すならください」
口をあけてねだってくる林原に、あきれてしまう。
どんなに似ているんだか。
「やだよ残さない。それに食べすぎは体によくない」
「って言ってその昔タロウの健康にも気をつかってくれたでしょ?」
「見てた?」
「まさか。カンです。案外鋭いんですよ。だから先輩が昨日、仕事でミスったのも知ってます。ちょっと元気がなかったことも。だから今日、おいしいモノを食べて元気になれましたか?」
「……んなことだと思ったよ」
そうだ。
そんなことだと思っていた。歩きながら。食べながら。
なんとなくそばにいて、寄り添ってくれる感じ。
元気をくれる感じ。声には出さないでいる感じ。
ますますタロウみたいに思えてくる。
タロウとの思い出があふれてくる。
こいつに話しても仕方ないのはわかっているのに。
ただ、タロウのことが思い出されて俺はぽつりぽつりと話しだした。
「タロウのこと絵日記に描いたんだ。あの時の夏休みの。ほとんど楽しいことで埋まったのに、俺は最後のページでタロウの死んじゃった日のことを描いて」
あの絵日記は今でも持っている。ときどき読み返している。
「なんだかその日に限ってタロウの散歩に行かなくて。いつも俺が一緒だったのにその日に限って行かなくて。そういう巡り合わせがほんとに、ほんとにさ」
あの夏休みの締めくくりの日、あの日がとてもつらかった。でもおぼえておかなくちゃ、って一生懸命絵日記を描いた。それはずっと忘れずにいる。
「でもほんとはさ、タロウの楽しい思い出を最後の最後に描いてやればよかった。それだけ、後悔してて」
「後悔はしなくていいですよ。タロウ、喜んでますよ。先輩のこと大好きだったから。おやつ、お母さんに隠れてこっそり増やしてくれたでしょ? 散歩も一番たくさんつれてってくれたでしょ?」
「ほんとにおまえ、よく知ってる……」
静かに耳を傾けてくれていた林原がふっと言葉を漏らした。
──鼻をひくりとさせて。
たぶんきっと今の俺と同じように、目を少し潤ませて。
まるでタロウの気持ちを代弁しているような言葉を。
*
今日はパンケーキがうまかったな。
……あれ、誰と食べたんだっけ?
帰宅してふと思い出す。
誰と、食べたんだっけ。
「あ、タロウの命日か」
カレンダーを見て思い出した。今日は夏休みの終わりの日。タロウの命日。
そういえばこんなことを今日、誰かとしゃべった気がする。
誰と、しゃべったんだっけ。
仕事でミスしたこと、月曜まで引きずるかと思ったけれど、なんとなく前向きになれている。おいしいもののおかげ。
あと、タロウの、おかげ?
タロウとの楽しかったことを思い出した、おかげ?
なにか、忘れている気がするけれど。
パサリ
本棚から何かが落ちた。
タロウのことを考えていたから落ちたのだろうか。
あの夏の絵日記だった。
かがんで拾い、記入してある最後のページをめくる。もう随分古いから丁寧にめくる。
それはタロウの死んだ日のことが描いてあるページ。
俺はそこから更に1ページめくった。白紙のページ。
鉛筆をもってタロウのイラストを描く。なんとなくパンケーキの絵も隣に描いてみる。
タロウとの思い出を描き直す。
さよならの記憶だけではないのだということを、改めて描いてみる。
タロウとの思い出を、たくさん。
この絵日記をいつかまためくった時に、元気なタロウに出会えるように。
『せんぱい、ありがとう、またね』
誰かの声がきこえる。
誰だろう。
とてもとても、会いたくなる声。
この絵日記をめくるとまた出会えるような。
そんな声が、聴こえてくるような気がした。
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