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帰宅
英人が留守番メッセージを再生すると、低く抑えられた女性の声が流れた。
「ごめん。まだ退院できそうになくて。私は元気だし、お医者さんから、お母さんはそろそろ退院してもいいと言われたのだけど……ハルちゃんが」
妻の愛奈は小声で、ぼそぼそと喋った。夫に心配させまいと、胸の内が声に出ないよう配慮しているのだろう。だが彼女の発する音の波は、彼に薄い青墨色のかなしみを想起させた。
「ハルちゃんはまだ出られなくて。でも、がんばって生きてくれているから」
リビングの時計に目をやると、すでに日付が変わろうとしていた。おそらく妻は会話することさえ億劫で、あえて消灯時間をだいぶ過ぎてから音声メッセージを送ってきたようだ。
「疲れているんだ、彼女は。……当たり前だろ」
英人は思いのほかいらだちを覚えている自分に、そう言い聞かせた。
「大変なのは、僕よりもマナとハルちゃんじゃないか」
独り言を終えると、メッセージアプリで、「明日は十時に行く。おやすみなさい」とだけ送信した。
仕事用の鞄と着替えを詰めたトランクを開けて、配布物とPCは食卓の上に広げ、洗濯物はバスルームの籠に放り入れた。二人で暮らすようになってからのいつものルーティーンだが、リビングしか明かりを点けていないマンションでは、ひとつひとつの動きが孤独を再認識させるための儀式のように思えた。
「こういう時は熱い風呂を浴びて、さっさと寝るに限る」
英人は仕事上がりの気だるさを感じながら、独りごちた。風呂の温度を銭湯並みに上げて肩まで浸かる。妻が留守にしている間の、ただひとつの愉しみだった。
彼は民間の航空会社の操縦士で、現在は長い訓練期間の終盤、営業路線での実地訓練中だった。今回のように帰宅が深夜に及ぶ勤務パターンは、まだ慣れていない。
疲れ切って帰宅しても、温かい飲み物を用意して待っていてくれる妻は今、家にいない。胎内にいる時からわかっていたことだが、生まれたばかりの長女・ハルは心臓に疾患があり、ふつうの子が退院する時期になってもNICUの中にいた。妻は病院でつきっきりだ。
「俺だけがつらいって訳じゃないよな」
会社でもご近所でも、世間には彼と同じかそれ以上につらく、深いかなしみを抱えた人がいる。そうやって自分を慰めても気分は軽くなりはしないが、「自分だけがどうして」と内向きに考えると、気持ちが固まってしまいそうな気がした。足下ばかり見ずに顔を上げなさい、とは父によく言われたことだ。
思いのほか早く風呂が沸いた。英人は掛け湯もそこそこに、肌をちくちく刺激してくる熱湯にゆっくりと身を沈めた。
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