15人が本棚に入れています
本棚に追加
夢路
英人は夢の中だった。二時半にいちど目が覚めるまで二十年前の自分に戻っていたが、今はその続きを見ているようだ。
「昔の実家だ。とっくに忘れたと思っていたけれど、覚えているもんだな」
同じ夢だからか、彼は眠りの中で六歳の自分を体験しながらも、同時に大人の目線でそれを観察していた。
「これ、明晰夢だよな」
たしか、「夢を見ている」と、自覚している夢のことだ。
「夢を見るのは忘れかけの記憶を更新するためかもしれない」
そんな感想を口にした直後、彼は背後から腰を押され、前によろめいた。
「ハッチ、あぶないじゃんか」
英人は愛犬の名を呼んで振り返った。目の前には、後ろ足で立って跳ねかかってくる生後三か月ほどの柴犬がいた。どこかにもらわれていく前、彼と遊んでいたころの元気な姿だった。
ハッチ号は、「はっ、はっ」という短い息を吐きながら、休むことなく跳びかかってくる。遊びの催促だ。
「たかいたかい、して欲しいのか?」
英人は自分の台詞を耳にして、「それはだめだ」と声を上げた。だが夢の中の幼い彼には届かなかった。
「よーし、ハッチ。今日はいつもより高くやるぞ」
六歳の彼は無邪気に声を上げ、子犬を両手で挟むと高く掲げた。そうして大人が赤子をあやす時のように、「たかいたかい」と言って天に向けて放り始めた。二度、三度と放っては受け止め、受け止めては放った。
あっ、と叫ぶのと、前足をついたハッチが悲鳴を上げるのは同時だった。
「ごめん! ハッチ」
腕の弱い六歳の彼は、ついに子犬を受け止めきれなくなったのだ。
英人があわててしゃがむと、ハッチは小刻みに震えながらも、すぐに立った。地面に着けないようにしている左の前足を手に取ると、短く甲高い悲鳴を上げた。足が力なく垂れているのは骨が折れたせいだ、ということは子どもでも分かった。
「ごめんなさい、ハッチ。ごめんなさい」
彼は子犬よりも低く頭を下げ、うずくまって泣いた。ハッチは子犬の匂いを残す鼻先を肩と首の隙間に突っ込んできた。けがをさせられてなお主人を心配しているのだと分かって、新しい涙が目に溢れた。
そのあとも夢は無慈悲に、彼が記憶していたとおりに進行した。朝、目覚めると頬は冷たく濡れていた。
「ハッチ、ほんとうは僕を恨んでいたのか」
彼は時間をかけて念入りに顔を洗った。妻と子がいる病院へ行くのに、気が滅入る夢を引きずっていたくはない。彼はすでに十分な痛みを抱えていた。
だがおそらく近いうちに、彼はもっと苦しい思いをする。そう胸が騒いだ。
最初のコメントを投稿しよう!