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不二
英人は悩んだ。もしかすると彼の選択が、人類全体に大きな幸福をもたらすかもしれない。愛奈だって、自分の産んだ子が失われる恐怖から解放されるのならば、喜ぶはずだ。
「いい話だと思う。提案してくれたことに、感謝している」
産婦人科の検査で、「この子は心臓に疾患を持つおそれが高い」と宣告された際のことを思い出す。あれ以来、妻は言葉すくなくなり、夫婦間でお互いの意見を言い合うことが減ってしまった。
「だけどやはり、僕は行かない」
ハルが今のような状態で生まれてくることは十分承知していた。いや、母胎から出ることなく生命の終わりを迎えることだって起こり得ることだった。それでも英人と妻は話し合い、出産を選択した。
「ハルは、ひとりしかいないから。もし長女が永く生きられないんだったら、僕に出来ることは、ずっと一緒にいることだけじゃないか」
ジュニアはなぜか喋らず、「くうん」と鼻を鳴らした。
「ハッチと会いたくない訳じゃないんだ」
「分かりますよ、エイトさん。だって私もハッチとは違う犬ですから。多層宇宙にたったひとりの、娘さんの側にいてあげてください」
英人は柴犬の、首輪のあたりをそっと撫でた。
「ありがとう。ハッチといられた時間が短かったからこそ、娘とは一秒でも長く一緒にいたいと思うのかも知れない。妻とも、もっとそういう話をしてみるよ」
ジュニアが鼻先を手のひらに押し付けてきたので、彼は首に腕を回した。
「ハッチにちゃんと、あなたのこと伝えます。かなしいことがあっても、エイトさんなら大丈夫だって」
「ごめんなさいって、伝えてほしい。僕が骨折させたから、もしかして地球にいられなくなったのかも知れないし」
「ハッチはすこしも、あなたのことを恨んではいませんよ」
英人の胸に熱いものが込み上げてきた瞬間、腕の中からジュニアが消えた。立ち上がって辺りを見渡すと、芝原は溶けて消え失せ、彼は暗いリビングでひとりだった。
「ハッチと再会したみたいで、夢のようだったよ。ハッチ・C・ジュニア」
今日は早く寝て、明日は病院へ行く。今夜、実際に夢を見るかどうか分からないが、夢がこわくないのは久しぶりのことだった。
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