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涙の浮かぶ目で、ブルギィの手元に視線をやる。血管の浮いた指は、まだ赤いボタンのそばでうろうろしていた。それが脅迫を意味しているのは理解に難くない。
「人の心の奥底に根を張る人格を作り替える要因のひとつに、精神をひっくり返すほどの苦痛がある。痛めつける手段がこれしかないとでも?この程度で音を上げるなよ、モルモット」
冷たい表情でブルギィがささやく。滝のように冷や汗を流しながら、ガジュはこくこくと頷いた。
「さて、前世でのお前の名前は?」
しばしの沈黙ののち、ガジュは答える。
「鈴木大翔・・・・・・です」
「聞いたことのない名だな。この近辺にはない種類だ、つまり異国か。否、『異世界』と言っていたのだから違う世界というわけだ」
良い結果を得たかのように、博士は満足げに鼻を鳴らした。姓名の響きの違いに、既に興味を抱いているようだ。
レチッタにも明かしたことのなかった前世での名前を口にしたことで、全てを明け渡してしまったような感覚に陥る。この世界とは違う場所で生きてきた記憶の、最も単純明快な証明が名前だ。
唇を噛んでいると、ブルギィが一瞬だけ横に目をやった。つられてガジュもそちらを見ると、相変わらず生気のない目をしたレチッタがやってくる。細長いドーム状の、金属製らしき何かを両手で抱えていた。
釣り鐘を思わせるような形状だ。というよりは、虚無僧がかぶる深い筒型の天蓋──
「こことは異なる世界を知り尽くすために、どれほど情報が必要だと思っとる。質疑応答だけで完結するわけがなかろう」
ブルギィはレチッタの手からその筒を引ったくると、にやりと笑みを浮かべた。
またしても、冷や汗が背筋を伝い始めた。もしやあれをかぶるのだろうか。だとすれば、ガラスの外にあるあれを自分のところに入れるために、一旦ガラスの障壁を取り外す必要がある。
一見、脱出のチャンスがめぐってきたようにも思える。しかしそれは思い込みに過ぎない。今、自分は枷で四肢を拘束されている上に、ブルギィの手にはまだボタンがずらりと並んだタブレット型の板があった。
──それに、とにかく嫌な予感がする。
不安が脳裏をよぎったときだった。博士が、再び赤いボタンを押した。
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