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 少し経って、蒼子さんは無事に退院手続きを終えて、自宅に帰ることになった。付き添いは私がした。勤務先の主任が相談にのってくれて、母よりも時間の融通が利いたから。  私は基本的に寮暮らしの人間だけど、しばらくの間は蒼子さんの家に寝泊まりして、そのまま会社に出勤することに決めた。病院に処方薬を貰いに行く際、付き添う予定だ。お正月休みに実家に帰る時と同じ要領で、寮の室内を片付け、冷蔵庫の中を調味料以外(から)にしてある。代わりに、蒼子さんの家の冷蔵庫には色々買い込んでおいた。いつもは生協の宅配を利用しているから。 「コグロ君、ただいま~。留守を預かってくれて、ありがとうね~」 「オ帰リナサイ」  蒼子さんは久しぶりの帰宅でテンションが高い。 「おばあちゃん、私も労って」 「遥香もありがとう~」  私は台所に向かって、取り合えずお茶を淹れた。  蒼子さんは下ろした荷物の中身を分類して、洗面所に運んで行った。 「やっぱり家は良いわねぇ。落ち着くわ」  仏壇に手合わせしてから、蒼子さんはゆっくりお茶を飲む。 「そりゃあね」 「看護婦さんもお医者さんも感じの良い人ばかりで、悪くはなかったのよ? ただ、やっぱり集団で寝泊まりすると、気を遣うからね~」 「お疲れ様」 「イビキとか歯軋りだけなら、おじいちゃんと暮らしていた時の要領で早めに寝ちゃえば良いんだけどね。喧嘩の仲裁は難しいわ~。ほら、みんな具合が悪いから、心のゆとりがね」 「えっ。大丈夫だったの? それ」 「耳が遠いフリして乗り切っちゃった」 「うわー」  蒼子さんはうふふと笑った。我が祖母ながら、イイ性格してる。 「あ、そうだ。忘れてた」  蒼子さんがいきなりパッと手を合わせた。 「え? 何? 忘れ物?」 「ううん。そうじゃないの。あのね、救急車で運んでくれた時の隊員さんにね、目元が涼やかな、すごく素敵な人がいてね」 「えっ、何、そんな余裕あったの?」 「その人に『大丈夫ですか?』って心配されてね。うっかり『大丈夫です』なんて言っちゃったものだから、『どこが痛いか教えて下さい』って、もっと心配されて」 「ええ……」 「遥香と丁度いい年頃に見えたの。うっかりして、独身か既婚なのか、隊員さんに聞くの忘れてたわ」 「おばあちゃん……」  私は頭を抱えた。  蒼子さん、頼むから真面目でいて。蒼子さんがその質問をしなくて本当に良かった。もししていたら、病院にお見舞いに行けなくなっていたよ。 「出会いはどこにあるか、分からないわよー。もう救急車を呼ぶようなことはしたくないけど、また会えたら次は聞いておくわね」 「やめて、お願い」 「あら、遥香は自分で聞ける?」 「き、……聞ける! 自分で聞く! だから……」  「また」なんて言わないでよ。 「大~丈夫よ」  蒼子さんはおおらかに笑って、私の頭をポンと撫でた。  もう……! 蒼子さんには、敵わないなぁ……。  思わず吐いた溜息と共に、安堵感のような虚脱感のような不思議な倦怠感がぶわっと身体に広がった。  なぜか涙が滲んでくる。入院手続きでバタバタしていた時や、お見舞い中は泣くことなんてなかったのに。  母や蒼子さんと違って、私の場合、安心すると涙が出てしまうタイプのようだ。 「あ、そうだ。家を留守にしていた間、心配かけたご近所さんのところに挨拶に行ってくるわ」 「え、今から?」  私がティッシュで目頭を押さえていたら、蒼子さんはさっと立ち上がった。 「こういうことって早い方が良いのよ。ほら、快気祝いとか、気を遣わせちゃうから」 「えー?」  切り替え早すぎない? 「あと、入院先の看護婦さん達、とっても優しかったって報告してくるわ。小谷さんとか病院嫌いなのよ。すっごくお勧めって言っとかなきゃ」 「何の押し売りなの、それ……」 「転ばぬ先の杖って言うじゃない。じゃ、ちょっと行ってくるわね~」  蒼子さんはそう言って、お気に入りのバックストラップ付きサンダルで行ってしまった。  取り残された私は、未だ涙がじわじわ止まらない。  うち、湿っぽいの、ほんと駄目なんだなぁ。もう、私の愚痴を聞いてくれそうなの、コグロしかいなくない?  あんなに「『中の人』に繋がったらどうしよう」と、疎ましい思いで眺めていたコグロのことが、今は前より(いや)じゃない。  ティッシュで鼻をかんだあと、私はコグロに呼びかけた。 「コグロ」 「ナンデスカ?」 「8月28日、蒼子さんのために救急車を手配してくれて、ありがとう。当日対応してくれた、コグロの中の人にもお礼を伝えておいてくれる? おかげさまで、森瀬蒼子さんは無事に退院することができました。これからも、緊急の折りにはどうぞよろしくお願いします。森瀬蒼子さんの孫の、森瀬遥香が感謝していると、伝えて」 「(カシコ)マリマシタ」 「コグロも、ありがとうね」 「ドウイタシマシテ」 「これからも、よろしくね」 「コチラコソ」  私は「さてと」なんて、蒼子さんの口癖を口にしながら、席を立った。涙は止まったから、顔を洗おう。  これから、入院先から持ち帰った蒼子さんの洗濯物を洗濯して、片付けなきゃいけない。
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