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ボトルメール
亜紀と震災で離れ離れになってから、僕は埃っぽい学生寮で生活していた。
食料と飲料は早めに買ってきたから問題なかった。何なら、酒類を買い過ぎていて、学生寮では毎日宴会のようになっていた。アルコールは、災害の気晴らしには必要だったのかもしれない。
避難所もいくつかできて、寮生が交代で情報収集と物資収集のために行くようになった。
お風呂は入れないときもあったから、濡らしたタオルで体を拭いたりして凌いだ。冬なのにお湯が使えないのは辛かったが、汗をかく量が少ないから夏じゃなくて良かったと思った。夏だったら異臭が漂っていただろう。
不自由は多かったけど、何とか生きていける環境だったのは幸いだった。周辺地域から物資を確保できたのも大きかったと思う。
学校は休校で日中は特にすることが無かったから、たまにボランティア活動をした。
道の掃除をしたり、重い物を運んでいるお年寄りの荷物を運んであげたりした。
治安は良くはなかったけど、最悪ではなかった。僕は寮生と一緒に行動していたから問題なかったけど、女性は大変だったと思う。亜紀が避難したのは正解だったのかもしれない。
いい加減なことを言って女性を連れ込もうとする奴があちこちにいた。治安のよい日本でも、全員が善人ではない。
地震の1カ月経過後くらいから役所の人たちが建物の被害状況を確認していた。建物を確認し、全壊・半壊・一部損壊・無被害などを判定した。
しばらくしたら、全壊や半壊となった建物の取り壊しが始まった。神戸の復興作業が始まったのだ。
僕たちは大学に行く必要がなかったから、工事現場でアルバイトした。シゲは「金はいくらあっても困らん」と言っていたが、僕もそんな気がした。
復興工事の現場では慢性的に人手が足りなかった。だから、学生寮では毎日誰かが「今日、大丸の解体工事にこれるやついる? 日当1万8,000円!」とか言ってアルバイトを集めていた。
そんなこともあって、僕たちは月に30万~40万稼いでいた。
日本ではバブル経済が崩壊していたが、学生寮はバブルだった。
災害現場ではこういうバブルが起こる。復興特需ともいうのだろうか……
当時はオンライン授業がなかったから、大学の講義は休講。学生はレポートを提出すれば単位を取得できた。特殊な環境だったと思う。
僕の研究室は被災して実験ができなかった。だから、修士論文らしきものを提出したら僕の修士課程は修了した。
震災で勉強どころではなかったから、修士課程終了とともに僕は日本を去った。
これが僕の震災後の日本での記憶だ。
***
阪神淡路大震災当時の神戸市の人口は140万人、神戸市の死者数は約4,500人(全体の死者数は約6,400人)だった。
人口に対する死者の割合は0.3%。死者数は少なくないものの、人口比としては多くない。津波の被害が無かったこと、地震の発生が午前5時代と早朝であったことから通勤・通学客の被害、火災の被害が少なかったことが幸いしたのだと思う。
なお、阪神淡路大震災における死因は他の大地震とは大きく異なっている。死因のほとんどは家屋の倒壊や家具などの転倒による圧迫死、ほとんどが即死だったとされている。
僕たちが学生寮を出た時点でほとんどの震災被害者は亡くなっていた。
***
あの震災から28年が過ぎた。
僕はアメリカに留学した後、ブラジルに戻った。今はブラジル第二の都市リオデジャネイロに住んでいる。
あの地震の後、日本では建築基準法が改正された。耐震性の低い住宅の被害が大きかったのが改正理由の一つだ。耐震性の高い住宅を増やして災害に強い街を作るために。
僕のいた神戸で亡くなった人は全体の0.3%。他の災害に比べれば、被害は大きくなかったのかもしれない。
でも、不幸にも亡くなった人がいた。
家が全壊した友人がいた。
二度と遭遇したくはないけれど、あの地震は僕の価値観を変えた。
僕はあの時に気付いた。
何かが起きれば、僕たちの生活は一変する。
地震の前まで僕が当たり前だと思っていた人生は、実は当たり前ではなかった。
災害もそうだし、戦争もそうだ。
テレビを付ければ、災害の被災者の映像が放送されている。
テレビを付ければ、戦争の被害者の映像が放送されている。
***
僕はクリスチャンだ。神を信じている。
でも、僕は知っている。祈っても神は人間を助けない。
「災害は神が起こす」とシゲから聞いた。日本の神の話だ。僕の神とは違う。
神が怒れば地震が起きる。
神が怒れば津波が起きる。
神が怒れば火山が噴火する。
もし、神が地震で死ぬ人の数を決めていたとしたら、どの人が死ぬかはただの辻褄合わせだったのかもしれない。
僕が神の気まぐれで生かされたとするならば、誰かは神の気まぐれで死んだ。
僕の神は生死に意味合いを持たせる。そうすると、僕には使命があるはずだ。
いや、試練かもしれない……
死んだ人達のために精一杯生きること。それが、神が僕に与えた使命(試練)だ。
僕は立ち止まってはいけない。
***
海岸を歩いていたら砂浜に瓶のボトルを見つけた。中には手紙が入っていた。
ボトルメールだ。僕と亜紀が28年前に手紙を入れたボトルメールではないけれど。
僕が書いた内容は今でも覚えている。
『未来の僕へ 何をしていますか? 日本にいますか? ブラジルにいますか? それとも他の国ですか? いま幸せですか?』
過去の僕からの質問に答えよう。
僕は今、ブラジルの地質調査会社で働いている。僕の国の人たちが災害で死なないために。
僕は人を助けるために、僕の知識を使うことに決めた。それが僕の使命だと思う。そういう意味では、僕は幸せだと思う。
あの時、亜紀は何と書いたのだろうか?
亜紀が地震の前に考えていた自分の運命は、地震の後も同じだっただろうか?
僕には分からない。亜紀とはあれから手紙のやり取りを何度かしたが会っていないから。
でも、僕は亜紀がどこかで幸せであることを願っている。
そういえば、来年の1月17日、僕は日本に行く予定にしている。
久しぶりに、春日野道に寄ってみようかな……
<おわり>
【後書き】
この話は、題名を決めてから内容を書き始めました。理由は私が春日野道に住んでいたから、という単純なものです。
神戸の話を書こうとしたら、どうしても阪神淡路大震災を外せなかったので作中に入れました。なお、登場する人物、学生寮は全て架空のものです。
最後になりますが、阪神淡路大震災で命を落とされた方々のご冥福をお祈りいたします。
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