じゃあ、淡路島でええわ

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じゃあ、淡路島でええわ

 Stabilityですべった合コンの後、僕はその時話をした女の子とちょくちょく会うようになった。  彼女の名前は樋口亜紀(ひぐち あき)。僕が通う大学のすぐ近くにある女子大の3回生だった。  亜紀は元町の実家に住んでいた。土地勘のない人のために元町の場所を説明すると、神戸の中心である三宮(さんのみや)から西に一駅の場所だ。  ちなみに、JRの駅名は『三ノ宮』、阪急・阪神の駅名は『三宮』と違う。紛らわしいが、どちらも『さんのみや』と読む。  僕が住んでいた学生寮は阪急電車の王子公園駅(三宮から東に2駅)と六甲駅(三宮から東に3駅)の間くらいにあった。二人の家の中間にあったのが阪急春日野道(かすがのみち)駅(三宮から東に1駅)だ。  神戸は港町だから貿易関係の会社がたくさんある。亜紀は元町の貿易商の一人娘だった。亜紀の実家はそれほど大きいわけではないけど、昔から続く貿易関係の会社を営んでいた。  彼女は僕によく「旦那を見つけて、会社を継いでもらわないといけない」と言っていた。あと「うちに来ない?」とも。  幸いにも僕は日本語、英語、ポルトガル語が話せるトリリンガルだから両親に紹介しやすかったらしい。  亜紀の家はお金持ちだが、僕は学生寮に住んでいた貧乏学生だった。  僕には車を買うお金がなかったし、免許を取りに行くお金もなかった。それに、ブラジル人である僕が日本の自動車免許を取得する意味があるのだろうか?とも思っていた。  神戸は坂が多い。東西移動は問題ないのだが、南北移動を徒歩や自転車で移動するのは苦労する。  だから、僕は原付免許を取得して普段はスクーターで移動していた。1万5,000円で買った中古のDioだ。  一方、お金持ちの亜紀は自動車で移動していた。亜紀の乗っていた車は、外国車の代名詞であるメルセデス・ベンツだった。  僕が初めてメルセデス・ベンツを見た時、驚いて亜紀に言った。 「すごい車やなー」 「免許取った時に、お父さんが買ってくれてん」 「なんでメルセデス? 小さい車の方が運転しやすくない?」 「お父さんが、これが一番安全やからって」 「頑丈ってこと?」 「そう、事故っても、ベンツやったら死ににくいらしいで」  娘が事故ることを前提に車を選ぶ父親。価値観は人それぞれ違う。  だが、亜紀の車にいくつも擦り傷があったのを見て、父親の考えに納得した。  神戸は坂道が多いし、住宅街は細い道が多い。  車を運転していると、急斜面で急角度にハンドルを切らないといけないから、慣れていないと車を擦る。特に、車体の大きな車は坂の多い神戸に不向きだ。  そいうわけで、運転が得意ではない亜紀の車にはたくさんの傷があった。  僕は車を持っていなかったから、亜紀とデートするときはいつも彼女が運転するメルセデス・ベンツで移動した。助手席に乗っていると、たまに怖い思いもしたが死ぬほどではなかった。  亜紀の運転する車で『100万ドル(1,000万ドル?)の夜景』で有名な六甲山――僕は摩耶山の方が綺麗だと思ったのだが――に行ったり、須磨海岸に行ったり、いろんなところに行った。  僕は亜紀と話すのが楽しかった。でも、亜紀は時々思いつめたような表情をしていた。  僕が「どうしたの?」と尋ねたら、「私の人生、こんなんでいいんかな?」と亜紀は小さく言った。  貿易商の実家を継ぐために旦那を探さないといけない。僕はそのことを悩んでいるのだと思っていた。本当の理由は分からない。  彼女は裕福な家に生まれて不自由のない生活を送っている。でも、本人は自由がないと思っているのだと。  その時の僕は、そんな彼女を見ながら大学院の修士課程を卒業した後の進路を考えていた。  博士課程に進むにしても、今の大学に残るかどうかは分からない。他の国の大学院に進むかもしれない。ブラジルに帰る選択肢もある。  それに、研究室が就職先を斡旋してくれるから、日本で働くこともできた。  日本に来る前の僕はブラジルに戻ろうと思っていたけど、その時の僕はいろんな選択肢があったから迷っていた。  そして、亜紀が言ったように、彼女と結婚して貿易商を継ぐ……それも選択肢の一つだった。  幸い、亜紀の両親は僕のことを気に入ってくれた。  亜紀の父親は仕事で普段から外国人と接しているから、僕がブラジル人であることを気にしていなかった。  貿易関係の専門知識はなくても、日本語、英語、ポルトガル語の3か国語が話せる。トリリンガルの僕は貿易商の跡取り候補として、悪くなかったようだ。  亜紀との交際が進むにつれて、僕は進路について考えるようになった。 ***  あれは夏だったと思う。亜紀と中突堤に行った時のことだ。中突堤には大型クルーズ客船が停泊できる旅客ターミナルがある。  海岸を歩いていたら、亜紀が紙とペンを僕に渡した。 「これは?」と僕が聞いたら、「未来の自分に向けて……何か書いて」と亜紀は言った。  亜紀はたまにこういう無茶ぶりをする。  亜紀が言うには、日本には学校行事で未来の自分に向けて何かを残す『タイムカプセル』というものがあるようだ。10年後、20年後の自分に向けて、自分の宝物を送ったり、手紙を書いたりするらしい。 「未来の自分に向けて手紙を書こう!」と亜紀は僕に説明した。  タイムカプセルは無いから、空き瓶に手紙を入れて蓋をして海に流すらしい。でも、それだと未来の自分がその瓶を拾う可能性は低い。きっと、他の誰かが拾って読むことになるだろう。ボトルメール(message in a bottle)と同じだ。  僕は誰かが拾って読むことを前提にして、未来の僕に手紙を書いた。  恥ずかしい内容を書くと、誰かに笑われるかもしれないから。 『未来の僕へ 何をしていますか? 日本にいますか? ブラジルにいますか? それとも他の国ですか? いま幸せですか?』  僕は書き終わると、文面が見えないように折りたたんで亜紀に渡した。  亜紀は手紙を受取ると、瓶に蓋をして僕に渡した。 「四国まで投げて!」 「それは無理。ギリ、淡路島やな」 「じゃあ、淡路島でええわ」  僕はできる限り遠くに飛ぶように、瓶を投げた。 「ぜんぜん、飛ばへんなー」 「ちょっと、今日は調子が悪いな……」 「何て書いた?」と僕は尋ねたが、亜紀は「内緒!」としか言わなかった。 ――あの手紙は誰に届くのだろうか?  僕は流れていく瓶をずっと見ていた。
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