1.青陽炎

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1.青陽炎

 それは、まるで罰ゲームのようだった。  2022年、初秋。   僕は今、中部地方にある四方を山に囲まれた集落に一人で滞在している。と言っても集落の中でなく、町興しの一環として建て替えられた山中の温泉旅館である。  夏の終わり頃に持ち上がった心霊騒動を調査する為に訪れたのが一週間前で、下見の段階からあまりの瘴気の濃さに驚いて、何とか依頼主に頼み込んで数日間だけ営業を停止してもらった。つまり、現在僕は山奥の温泉旅館に一人きりである。  これまで僕が見て来た事例と異なる点がいくつかあって、営業を続けながら除霊やお祓いを行うことは不可能だと判断した。依頼主は麓の役場で観光協会を兼任する伊勢崎さんと仰る男性で、物分かりの良い方ではあったが、シーズン中の営業停止はかなりの痛手だと嘆いていらした。分からなくはないが、致し方ないことだと納得してもらう他なかった。その伊勢崎さんの話によると、最初に怪異に見舞われたのは仲居をしている五十代の女性で、風呂場の清掃中に女の声を聞いた、という。  当旅館「離れ 寺京庵 」は木造二階建て、部屋風呂付の客室が六室という隠れ家的な館である。その上で貸切り専用の露天風呂が五室もあって、秋から冬にかけての観光シーズンは三カ月も前から予約が困難な程の人気を博しているそうだ。問題が起きたのは、その露天風呂である。 「いわゆる大浴場なんかと違って、外ですから常にいろんな音がしますでしょ。最初は気にもしてなかったんですけど」  と、件の仲居さんは語る。「やっぱり洗い場なんかの掃除は大変で、ここだけの話お湯を流しっ放しにしたままブラシをかけたりするもんですから、まあ静かではないですよ。ただ、ふとした瞬間にね、一息ついたタイミングというのか、急な静けさがやってきて、耳元で聞こえるんです」  ─── 『ほぉー……』  溜め息のような、尾を引く長い声。 「初めはそれが声なのか音なのかも分からなかったんですけど、私のほかにも声を聞く人間が現れまして。やっぱり声だ、女の声だ……と」  従業員たちの間で嫌な噂が広まるのは一瞬だった。ただ、誰に確かめてもその声は「ほ」か「お」の音を長く伸ばしているだけで、言葉には聞こえなかったそうだ。  人里離れた温泉旅館、夜な夜な女の声が聞こえる ――― とだけ聞けば、別段珍しくも驚くほどのことでもないのだけれど、通常ではあまり考えられない事象もいくつか起きていた。ひとつ目は、現場となっている風呂場がことだ。仮に、聞こえてくる謎の声がかつて当該施設で亡くなった女の地縛霊であるならば、普通は化けて出る現場は常に同じでないとおかしい。  かつての怪談ドラマや心霊番組で見られたような、大病院に出没する元入院患者の霊、などといった再現ドラマのせいで勘違いする人も多いが、ある時は病室、ある時はエレベーター、ある時は階段、といった具合に霊体が移動することなどほとんどないと言っていい。例外があるとすれば、霊体に憑依された人間が他所の土地で霊障を被る場合だが、これとて実際に霊体が自らの意思で移動しているわけではない。  本来この世に戻って来る霊体はすべからく、死の直前に抱いた強い思いと共に顕現する。つまり、というのがこの世の摂理に則った超自然的現象である。  だが、寺京庵では違った。基本的に声がするのは夜中の清掃中が最も多いが、五つあるすべての露天風呂で同じ事象が起きていた。客室ならばいざ知らず、貸し切り用の露天風呂が隣接しているということはもちろんない。お互いの距離は程よく離れているし、俯瞰で見た場合に五つの露天風呂を指さして、のである。可能性としては五つの露天風呂で人間が五人死んだ場合、此度の事象は起こりえる。しかし現実的ではないし、そもそも寺京庵の歴史はまだ新しい。むろんのこと、これまで施設で亡くなった人間などいないというのが旅館側の説明であった。  では町興しの為に建て替えられる以前ならばどうか……伊勢崎さんに問い合わせてみたが、やはりそのような事実はなかった。少なくとも事故や事件で亡くなった人間の話など聞いたことがないそうだ。  そしておかしな点、二つ目。事象は謎の声だけでは終わらなかった。嫌な噂が流れ始めて数日、今度は女の霊を目撃するようになった。 「女……かどうかは、すみませんはっきりとは言えません。だけど声が聞こえ始めてからですから、やっぱりそうなのかと思って」  どのように霊が見えるのか。そして目撃した従業員たちは、皆同じようにその霊が見えているのか。仲居さんたちの証言は次のようなものだ。 「髪の毛、ですね」 「露天風呂の湯船に、頭が、浮かんでるんです」 「顔は見てません……見えないんです」 「見えているのは頭のてっぺんだけ、つまり髪の毛だけなんです」  人間の、女性の頭頂部が湯船に浮いているのを見る、という。  ─── 怖、と思った。  証言通りであれば、皆が同じ幽霊を見ているように思われた。女の長い髪が四方八方に広がって浮いている、しかし、額から下は湯に沈んだままで全体像は掴めない。  日を追うごとに少しずつ浮上してくるのかとも思われた。しかし僕の方へ今回の話が回って来たのはこの「女の髪が浮いている」と騒がれ始めた直後のことで、経過観察を行うのであればこれから、という段階だった。ただ、現場に足を踏み入れた瞬間、そんな悠長なことは言っていられないと判断せざるを得なかった。  恐ろしく濃い瘴気が旅館全体に充満していた。聞けば最初に異変が起きてからすでに一カ月近く経っていると言う。現場は五つある露天風呂すべてと聞いていたが、正直いつどこで霊障被害が出てもおかしくはないと思った。  ここで言う瘴気とは、霊体が現実世界に干渉した際に出る穢れや怖気のことであり、感染症を引き起こす悪い空気とはまた別ものだ。感の鋭い人間が触れれば体調不良を引き起こすという点では性質的に同じだが、由来がそもそもこの世のものではない。  僕の目をもってしても肉眼でその正体は捉え切れなかったが、何かがこの館に巣食っていることだけは間違いなかった。現場が複数、何人もの従業員が同じ霊体を目撃する……まずこの二点だけでも、旅館が営業を続けたままで、何某かの対処に取り掛かるのは非常に難しいと感じた。そも、怖い思いをするのが従業員だけとは限らない。怖い思いだけならまだいい。それこそ健康を害することだってあるだろうし、悪くすれば病を発症することだってある。 「分かりました。そこまで仰るのであれば」  伊勢崎さんは当初、僕が此度の事象に対して真摯に向き合う姿勢を見せただけで喜んだ。そんな馬鹿な、何を世迷言を。もしかしたら僕の前にもそう言って取り合わなかった人間がいたのかもしれない。だが、喜んでばかりもいられなかった。季節は秋に移行し、旅館側としてはここからが繁忙期である。 「ですが、何とか一週間程度で営業再開とあいならんもんでしょうか」  そう頭を下げられてしまい、無下に断ることは出来なかった。こちらとしても無暗に時間をかけている場合ではないと判断したことだし、一日でも早く事態を収拾させたいという気持ちは旅館側と同じだった。 「善処します」  と答えたのが実は、もう五日も前のことだ。  僕が初めてこの寺京庵にやって来てから一週間。約束の期日まではあと二日しかない。旅館はこの五日間ずっと営業を停止したままで、昨日からは従業員全員に引き払ってもらった。営業を行わないからと言って仕事がないわけではない、と旅館側は難色を示したが、 「このままじゃ、その仕事場自体がなくなりますよ」  と言って脅した。そうでもしなければことが出来なかったのだ。此度の事象がこれまでと違う点は、正直に言えばもう一つある。僕はそこを理解した上で、どうしても一人になりたかったのである。  僕は、この場所で、ある人物が現れるのをずっと待っている。  拝み屋・新開水留(しんかいみとめ)として、そして、ひとりの人間として───
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