366人が本棚に入れています
本棚に追加
83.希望
「どうしたんだ!」
次の瞬間には声を荒げていた。
目の前に姿を現した山田信夫は、たった今水底から上がって来たみたいに全身が赤黒く濡れ光っていた。ふらふらと前後に揺れている信夫の肩に手を置き、土井零落は顔を覗き込んだ。
「一体誰が何をすれば君をこんな目に……?」
信夫の左手には破けたビニール袋が握られていた。そのビニール袋からも血がぽたぽたと垂れていた。
「う」
土井零落は反射的に信夫の肩から手をのけた。音もなく、度肝を抜くサイズの巨大百足が信夫の背中から這い出て来たのである。百足は背中から左肩を通って胸の辺りで円を描くと、右の脇腹から再び背中へと消えた。
「こ、蟲毒か?」
土井零落は見抜いた。だが把握している情報では、チョウジ室長山田信夫が呪術を操るとの話は聞いていない。
「……人、でした」
不意に、信夫がぼそりと呟いた。
「何がだ?」
問うと、信夫の澄んだ眼が土井零落を見返した。
「相手はこの世ならざる者じゃありません。確実にこの世にいる者です」
「何故そう思った?」
「我々が電波干渉音だと思っていたノイズは、超高速で打ち出される呪文でした」
信夫がもたらしたこの情報は、すでにゆうやみにて土井零落と町屋小覚が看破した後だった。
「連中は二度、術を打って来る。初めに電波干渉音を聞かせて術の芽を無理くりねじ込んで来る。そして次に、マジモンの呪言詠唱でとどめを刺す」
「それで?」
「姿を消した私に混乱し、相手の術が止まりました」
「……まさかとは思うが、それを確かめる為にあえて術を受けた、なんて言いませんよね?」
「さすがは天二だ」
「馬鹿な! 防げるわけないでしょう!」
「隙をついて、こいつを」
そう言って信夫は破れたビニール袋を持ち上げて見せた。本来その中には大量の血が入っていた。それは仕儀有徳が持参した呪具の一つ、穢れの塊りであった。彼は同じ小袋を二つ用意していたのである。信夫はその使われずに置いてあった穢れの存在を見逃さなかった。いや、直前までは忘れていたそうだ。だが、離れて尚自分の身を案じてくれたパン・華の声が、ギリギリの活路を信夫に見出させてくれたのだ。
「じ、自分でそいつを引っ被ったのか」
さしもの土井零落も呆れるしかなかった。
ともすれば人を呪い殺す黒魔術である。
その術の源である呪血を、信夫は頭から被ったのだ。
「あちらさんの術と仕儀有徳の執念、そのどちらが上回るかの賭けでした」
と言って信夫は笑った。「まさか、皆目堂の呪いを内側から吹っ飛ばすことになるなんてね」
土井零落の目が警戒心を帯びた。「からくりを知っていたのか」
「ええ、知らない振りをしていただけです」
いつものように悪びれずに答えた、だがこの時の信夫は満身創痍だった。雨戸夏帆の中にいた者からの攻撃は未然に防いだ。だが、だからと言って蟲毒の穢れを全身に浴びて無傷でいられるわけがない。
「無茶をする」
ため息をつき、土井零落はその場で信夫の解呪に取り掛かった。
「たはは」
と信夫は渇いた声で笑った。「それもこれも、全部土井さんとこの若頭の影響ですわ」
「……え、誰?」
「ご存知でしょうに」
「悪いけど口は閉じていなさい。棺桶に頭から突っ込んだみたいな匂いだ」
「わははは」
「山田くん、君は」
「逃げられましたー……」
「……」
「すみませんでした」
信夫は土井零落の肩にもたれかかり、消え入るような声で詫びた。「雨戸夏帆も、仕儀有徳も消えました。やっぱり狙い通りには行きません……ね」
そのまま信夫は失神し、呼吸が停止して崩れ落ちたそうだ。土井零落が皆目堂を訪れなければ、この日が山田信夫の命日になっていたことは間違いないだろう。
「どうしたの?」
最も早く異変に気が付いたのは、成留だった。
伊達美憂から教わった住所を訪ね、そこには何もないと分かった時、成留の心は破れる寸前だった。だが彼女の側には秋月六花がいて、家に帰れば新開希璃がいた。決してそんな単純な話ではないけれど、尊敬する人間が側にいたことで、成留の心は砕け散ることを免れたのだと思う。
「信じていればいいじゃない」
妻はそう言ったそうである。「会えるとか会えないとかじゃなくてさ。成留がずっとダミさんを信じていればいいじゃない。好きでいればいいじゃない。そしたらダミさんも嬉しいし、成留だって幸せじゃない?」
六花さんは感心したという。だが、若い成留はまだ心からは納得しきれなかった。頭ではその通りかもしれないと思えても、先走る心が前向きな感情を追い越してしまう。分かっていても会いたい。分かっていても悲しい。それが今の成留なのだ。
だから……という直結した理由にはならいかもしれないが、きっと自分の感性に忠実な成留だからこそ気づけたのではないか、と僕は思う。それは、異変とも呼べないちょっとした気づきであり、ほんのわずかな綻びでしかなかったのだ。
その日妻は自宅一階のリビングで、窓辺に立って外を眺めていた。時間帯は、まだ午前中だった。洗濯物の乾きを気にして天気でも確かめているような、何気ない日常のワンシーンである。二階の自室から下りて来てキッチンへ向かう途中、成留がそんな妻の様子を目撃した。
「……お母さん?」
「うん?」
妻は返事して成留に振り向いた。
「何してるの?」
「外、見てるだけ」
「誰かいるの?」
問うと、妻は苦笑して、
「何で。いないよ。怖いこと言わないでよ」
と答えたそうだ。
「お父さん、大丈夫かな?」
成留の問いに、
「え」
と妻は聞き返した。「何で?」
「だって、まだ体調万全じゃないのに病院出ちゃったんでしょ?」
「まぁ、うん。言ってもなかなか、自分の思う通りにしか動けない人だから。昔から」
「それは、今もあるね」
「成留、学校は?」
「お昼からにする」
「休む?」
「んー……行くー……かなー……」
成留は曖昧な言葉を発しながらキッチンに立ち、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いだ。その場でひと口飲んで、自室に戻ろうと振り返った時、妻がまだ窓辺に立って外を見ていた。
「……」
ただ、それだけである。日常の風景、その続きである。
だのに、成留はそんな妻の横顔を見つめて、
─── おかしい
そう思ったそうだ。
「だからどうしたのって」
聞くと
「……別に」
妻はそう答えて窓辺から離れた。「成留。学校行くんなら送っていくから声かけてね」
「ああ、うん」
その時にはいつもの妻に戻っていたそうだ。違和感を持ったのは一瞬で、成留も深く追求しなかった。だが、その後も成留は窓辺から外を見ていた妻の顔を思い出しては、暗い気持ちになったそうである。
時系列で言えば、この時成留が抱いた違和感がタイミング的には一番最初だった。まだ、この時それは起きていなかった。
遡ること数時間前、ようやく夜空が白くなり始めた頃、東京から遠く離れた場所で、その男は腰を上げた。男は家を出る時、玄関の靴箱の上にあったどんぐりを見つけて二個手に取った。それから家の裏手に回って庭を歩き、雑木林に入って腰を下ろした。下した場所には膝丈の墓石があって、来る時持って来た饅頭を二つ供えた。
「……二個は多いか」
言って一つを手に取り、その場で頬張り、粉のついた手をパパンと払って、合掌して頭を垂れた。
「この世界が見えるかね」
男は尋ねた。むろん墓石は答えない。
「どう見える」
尚も言った。だが、やはり墓石は答えない。
「お前さんは、どんな世界を想像していた?」
数秒後、男は苦笑し、頭を振って立ち上がった。雑木林から出て家に戻ると、ガラガラと玄関を開けて中の者に行ってきますと告げた。そして緩やかな坂道を歩いて下り、麓の村に預けていた車に乗り込むとすでに運転席に人が座っていた。
「よろしく頼むよ」
言うと運転手は黙って頷き、エンジンをかけた。男は後部席で一人、ポリポリと頬を掻いた後、懐から手紙を取り出して開いた。
……あのなだらかな緑の勾配を、三人で登り下りした時のことを今でも昨日のように覚えています。しかし人はどうして、すべてを忘れるように出来ているのでしょう。それが人間にとって、明日を迎えるために必要な機能だと分かっていながら、それでも尚、風のように飛んでゆく去りし日々の思い出をいつまでも掴まえていたくて仕方ありません。
こうしてあなたとの思い出を振り返る手紙を書くのは初めてではありませんが、今程この小さな便箋の中に飛び込んでしまいたいと強く願った事はないのです。
現実から目を逸らした愚か者の妄言を嘆かわしいとお感じでしょうが、私は今、正直に言えばまるで生きた心地がしません。可能ならば便箋に書き連ねた言葉の後ろに身を隠し、幸せだったかつての日々をもう一度追いかけ回し、馬鹿みたいに浮かれ踊っていたい。それはなぜか。
私には明日への希望が思い描けないのです。あなたの背中を見失ってから今日まで、私は暗夜をひとり彷徨っているのです。それは確かに己で選んだ道でした。後悔はない。他人を恨むこともない。過去の自分を憎むこともない。しかしただ、しかしただ! ただひたすら、ただひたすら! 猛烈にさみしい。
ある意味では、こうしてあなたにお手紙を認めることは、私にとって好都合と言えるのかもしれません。だがそれを口に出すことはできないし、本来はそんな風に考えることすら許されぬ事態に我々の世界は直面しています。
あなたのことだから、すでに御山の上から下界の様子を見知っておられることでしょう。大好きなチョコレートをパキリと齧り、不出来な弟子が醸し出す噴飯ものの未熟さを、舌に溶かした甘未によって相殺せずにはいられないのではありませんか。
誤解を恐れずに言えば、私は自分が世界の主人公だと思って生きてきました。この場合で言う世界とは地球上の話ではなく、私の人生においてはという意味です。しかしながらそれは、違ったようです。私の人生の主役は私ではなかった。私の人生の主役は、娘でした。そして妻でした。彼女らが輝けぬ日々に私の未来はありません。これは嘘偽りない私の本心であり、拝み屋を志した私が掴んだ唯一絶対の答えでした。
迷える人々を導きたい。悩める人々に寄り添いたい。彷徨える魂の声を聞きたい。拝み屋にとっての本懐はしかし、私の人生の主役を輝かせる為の道程にこそあると気が付いてしまったのです。
この世界には明日が必要です。明後日も欲しいです。来週もほしいです。来月も来年もずっとずっと世界が続いてほしい。妻に娘を。娘に未来を。その為に私はゆきます。私の人生の主役を輝かせるために。
そして、若かった私を根気強く教え導いてくださったあなたの背中を今こそ追い越すべく、私はゆくと決めました。長い間ありがとうございました。たとえ道半ばで倒れたとしても悔いはありません。最後まであきらめずに前を向いてゆきます。そしてこれを、私の遺書とします ───
男は手紙を閉じると、特に言葉を発することもなくにこりと微笑み、静かなため息を吐き出したそうだ。運転手はミラー越しにそんな男の様子を確認しつつも、特に声をかけたりはしなかった。やがて車が発進し、海沿いの長い長い道へと走り出して行った。
気が付けば夜が明けていた。目的地には勝手に到着したそうだ。男は向かうべき場所を事前に把握していたわけではなかったが、思いつくまま右左を指示しながら走っているうち、
「ここだ」
そう感じ取ったという。運転手は車を停めてエンジンを切り、後部席を振り返って会釈した。
「ありがとう」
男はひと言礼を言い、車を降りてその場で空を振り仰いだ。
「何ともはや。この世の終わりみたいな光景だなぁ」
男は歩いて階段を登った。エレベーターがあることには気づいていたが、扉の前に立って数秒思案し、
「おん。こっちさ」
階段を使うことにした。機械の故障を恐れたから、というだけが理由ではなかった。それにはタイミングを計る意味もあった。
「ああ、早い早い」
「もう少し、ゆっくり行こう」
「うーん、ちょっと遅れ気味だな」
男は細やかに歩調を変え、階層を上がる度にぶつぶつ言いながら戻ったり急いだりを繰り返した。それに、考え事をする時間も欲しかった。
「物事には理由があるね」
「そして必ずひとの心があるもんだ」
思い出を振り返りたくもあった。己が歩いて来た長く険しい道。そこで出会った多くの人々。そこで別れた多くの人々。
「皆さんありがとう」
「皆さんさようなら」
「皆さんお元気で」
「皆さんまたいつか」
果てしない階数を登って息も切れた。だが、不思議と引き返そうとは思わなかった。気力は満ちて十分だった。男は家の玄関で入手したどんぐりを耳の穴に詰め、大樹から削って出来た大振りの玉が連なる数珠を上着の懐から取り出して握った。
男は口元に笑みを浮かべたまま、やがて屋上へと通ずるその扉を開いた。
最初のコメントを投稿しよう!