ある将軍様のお話

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心地よい音がした。目が覚めた。犬の、しかもとびきりの美人の犬の鳴き声だ。部屋が明るかった。おそらく朝なのだろう。まだ寝ていたかったが、ずっと寝ているわけにもいかないので、しかたなく体を起こした。いや、正確には起こそうとした。その時、目の前になにか、毛の生えた獣の手があった。思わず声をあげて飛び起きる。上の部屋で寝ているだろう家臣に向かって「起きろ。助けてくれ。」と声を出す。上から音がした。緊急事態だと踏んですぐに起きたのだろう。少ししたら下に降りて助けてくれるはずだ。我ながら優秀な部下だと思う。落ち着くために深呼吸をする。恐る恐る獣の手があったところに目を戻す。そこにはさっき目にした、獣の手はなかった。焦る。恐怖心からか、足が震えだす。 「殿!ご無事でございますか?」 正面の障子を勢いよく開け、家臣が一人、入ってくる。 「助けてくれ、獣が一匹、この部屋にいるんじゃ!」 家臣に向かってそう叫んだ。目の前の家臣は、鬼気迫った顔で、腰から刀を抜き、構えた。よかった。助かった。そう思った瞬間、 「この犬畜生め、殿をどこにやった。」 と家臣が叫んだ。何を言っているのかわからなかったが、自分の手を見た瞬間、理解した。そこにあるはずの自分の手が、犬の手になっていた。手だけではない。自分の体が、犬になっていたのだ。家臣は、今にも切り捨てんとばかりに私に迫ってきた。刀が振り上げられる。考えるよりも前に、体が動いていた。前に走り出し、家臣の股の間を抜け、そのまま開けっ放しの障子から部屋の外に出る。 「こら!またんか!」 鬼のような叫び声が聞こえる。捕まれば殺される。死にたくない。その一心で出口まで駆け抜ける。出口だ。思わず声が、正確にいえば鳴き声だが、とにかく声が出た。それぐらい嬉しかった。外に出ると、すぐ横に犬がいた。メス...いや女性の、とても美人な犬だった。思わず見とれてしまう。が追われていることを思い出し、逃げる。逃げようとする。しかし、どこに逃げればいいのかがわからない。戸惑っていると「あの」と声をかけられた。目の前の美人な犬だ。 「あの、ニンゲンに追われて困ってるんでしょうか?」 「あ...ああ」 「でしたら、そこの建物の横の小道をまっすぐ行くといいですよ。途中の塀の上に、真っ白の犬がいますから、その犬に助けてもらうといいでしょう。」 「感謝する」 そう言って、すぐ小道に向かって走り出した。小道は思ったより湿っていて、気味が悪かった。早く抜けたかった。しばらく歩くと、塀の上に犬が横になっているのが見えた。さっきの女性犬が言っていた、白い犬だろう。声をかける。 「おい、そこの犬。助けてくれんか。」 寝そべっていた犬が、塀から降り、目の前に立つ。思ったより小さく、しかしたくましい犬だった。 「何、俺に何か用かい?」 「そうじゃ。人間に追われているんじゃ。助けてくれんか?」 「ずいぶん偉そうじゃないか?それが犬にものを頼む態度かよ」 「黙れ。儂に逆らうのか?儂は将軍だぞ。」 「将軍?何言ってんの?面白い冗談を言うやつだな。」目の前の白い犬が、あっはっはと(本当はそんなはずないのだが、確かにそう聞こえたのである)声をあげて笑う。 「うるさい。さっさと助けんか」 「わかったよ。しかしおもしろいな。自分が将軍です、なんて。お前はそうだ、お犬将軍、なんてぴったりな名前じゃないか。」 「む...まあよい」 助けてもらう立場なので、それ以上強くは言えなかった。ひとまずは他の犬が集まる場所に連れて行ってもらうことになった。小道を通り抜け、人通りの多い道にでた。人に踏まれないよう気を付けながら、前を歩く白い犬についていく。ふと気になったことを、口にする。 「おぬし、名は何というのじゃ?」 「名前なんてないさ。生まれた時から人間とはかかわったことがないからね。他の犬は白って呼ぶよ。なんせ体が真っ白だからね。」 「そうか...しかし白だと面白くない。そうじゃ、小さい犬だからチヌというのはどうじゃ?」 「なんだチヌって。まあいいや。なんとでも呼びな。そんなことより、歩くのに集中したほうがいいぜ。」 何を言っているのかわからなかったが、目の前の大きな人の足が目に入り、ようやく理解した。いつの間にかあったそれは、私を塞ぐかのようだった。よけようとするも、ぶつかってしまう。バランスを崩し、転びそうになるが、なんとか持ちこたえて歩き出す。このまま何事もなかったかのように済めばいいのに。そう仏様に祈りながら上を向いた。案の定、そこには鬼がいた。鬼のように顔を真っ赤にし、なにか叫んでいる。今のうちだとチヌが合図をし、逃げようと走り出す。しかし、鬼がわけのわからない言葉を発しながら追いかけてきた。暴れ狂いながら追いかけてくる様は餌を前にした狂犬のようで、これではどちらが獣かわからない。捕まらないよう一心不乱に走る。ひとまず逃げよう。でもどこに?その時、視界の隅でチヌが手を振っているのが分かった。「こっちだ。走れ。」というのが聞こえた。チヌのすぐそばに小さな、犬しか通れないような隙間があった。そこへ逃げるんだな。チヌに向かってうなずいた。それを見てチヌは、先にその小さな隙間へ入っていった。疲れてきたのか息が荒くなり、足がもたついてきた。いますぐ走るのをやめて、寝っ転がりたい。それくらい限界だった。しかし追ってくる鬼はそれを待ってくれやしない。なんて心の狭いやつなんだ。犬に対してこんなになるなんて。最後の力を振り絞り、走る。走る。走る。隙間はもう目の前まで迫っていた。そこで、鬼の手がしっぽを掴んだ。ああ、捕まった。もうだめだ。そんな考えが頭をよぎる中、後ろから悲鳴が聞こえ、しっぽを掴む手が緩んだ。その悲鳴は、鬼のものだった。顔を真っ赤にした鬼が、突然倒れ、のたうち回る。チヌが鬼の足に噛みつき、助けてくれたらしかった。 「いまだ。行くぞ。」 チヌが私の手を引き、隙間へ駆け込んだ。じめじめした、小汚い道だった。二人で進んでいく。 「危なかったな。まあ無事でよかったよ。」 「ああ。感謝する。何か褒美をやろう。」 「ハハッ。相変わらずの上からだな。まあ期待しとくよ。」 「巻き込んでしまってすまぬ。本当に危なかった。」 「いいってことよ。」 それから、さっき追いかけてきた鬼のことを思い出す。 「気の短い男であった。最近のはあんななのか?」 「最近のは、っていうか、ニンゲンなんてそんなもんだよ。俺たちの命をなんとも思わない。偉そうなやつらさ。あんたは違うといいけど」 「あ...ああ」 うまく答えられなかった。自分もあの男のように、他の生命に対して乱暴にふるまっていただろうか。今までの自分が愚かに思えた。道は狭く、二人並んで通るのがやっとで、じめじめしている。重い雰囲気があたりを覆っていた。 「着いたぞ。」 チヌの声で我に返る。いつの間にか開けた場所に出ていた。周りが高い塀に囲まれた、空き地のような場所だった。背丈の高い草が生い茂っている。その中心だけ草が少なく、そこに向かってみると、犬が四、五匹横になって眠っていた。生きる気力を感じられない、やせ細った犬だった。 「捨てられた犬や居場所をなくした犬が、この場所に身を寄せ合ってんだ。みんなで協力して、ぎりぎり生きているって感じだよ。」 言葉が出てこなかった。罪悪感が一気に押し寄せてくる。人間が不自由なく生きている裏で、犬はこんなにも不自由な生活をしているのだと知った。音がした。自分の腹からだ。 「腹減ったのか。あいにく食料が尽きちまってるんでね。耐えてくれ。」 仕方のないことだった。私が、私たち人間が、犬をこうさせたのである。因果応報とは、まさにこのことであった。また腹が鳴る。もう話す気力も残っていない。何もすることがないから、横になった。目を閉じる。意識が遠のいていく。自分の感覚が、現実から遠のいていく。まるで全てが、夢だったかのように。 音がした。目が覚めた。犬の、騒々しい音鳴き声だった。体を起こし、自分の手を確認する。思わず声が出た。人間の手がそこにはあった。ガタンと上から音がした。今の声で家臣が起きたに違いない。我ながら優秀な部下である。もう一度、自分の手を確認する。指が五本ある、まごうことなき人間の手であった。 「殿?ご無事でございますか?」 正面の障子を勢いよく開け、家臣が一人、入ってくる。 「ああ。大丈夫じゃ。それより今日は城に大名を集めてほしい。いい案が思い浮かんだのじゃ」 「は。今すぐ連絡いたします」 部屋の外に出ると、想像以上に明るく、しかし気持ちのいい朝だった。伸びをする。 「ちなみに殿。その案というのはどのようなものなのでしょうか?」  よくぞ聞いてくれた、と言いたくなる。息を吸い、ゆっくり吐く。家臣をみて、宣言する。 「生き物の命を、特に犬を大切にする、というものじゃ。生類憐みの令、なんてどうじゃ?」 「殿!なんと優しい心をお持ちなのでしょう。今すぐ、各大名に知らせます」 「そうじゃな。それと、手始めに白い犬を集めよう。まずは白い犬の保護からじゃ」 太陽の光が、これでもかと照り付けてくる。何かいいことが起こる。そんなことを予感させる朝だった。 「さあ。忙しくなるぞ」 その後、この将軍様が犬将軍と市民から呼ばれるようになるのは、また別のお話。
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