久しぶり、私の……

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久しぶり、私の……

 その年、世界中で蔓延した新型のウィルスが、人々の生活を大きく変えた。旅行や外食のみならず、生活必需品の買い出しや家族に会いに行くことすら憚られる日々。私たちの生活は混乱を極めたものの、人は次第に順応するもので、家活なるものが流行した。  病で苦しむ人々や、過労に喘ぐ医療従事者がいる中で、何とも呑気な「暇つぶし」だが、私たちが家に引き篭もっていることこそが、この未曾有の事態に対処するための策の一つであった。  幸いと言うべきか、一人っ子である私は幼少期から、一人で過ごすことを苦とは思わない質だった。  仕事すら在宅ワークとなり、一歩も家から出ない日々が続いても、動画を見ながらヨガをしたり、部屋の隅で埃を被っていた調律の狂ったピアノを弾いたりして、それなりに充実した時間を過ごしていた。  けれどそれが一ヶ月続いた時、いよいよ退屈に耐えきれなくなり、新たな趣味でも見つけようかと思い、ネットの世界に良案を求めた。みんなはこのご時世、何をして過ごしているのだろう。  スマホの小さな画面には、様々な家活情報が表示されている。  料理、お菓子作り、筋トレ、読書、断捨離……。  ネットの海に流れている情報のうち、大半はすでに挑戦済みだったけれど、そういえば断捨離はしていなかった。私は早速、開かずの間になっていた押入れを開き、長期間忘れ去られていた品々を引っ張り出した。  実家暮らしをしている私の部屋の押入れは、幼少期の思い出の宝庫であった。  買ってくれるまで帰らないと駄々をこねて手に入れたウサギのぬいぐるみは埃を被り、撫でるとくしゃみが誘発される。小学生の頃お気に入りだったパーカーの胸元では、女児向け人気アニメキャラがじっとこちらを見ている。どこか恨めしげに見えるのは、彼女の存在をすっかり忘れていた私のセンチメンタルな気分が作り出した空想か。中学や高校の制服は記憶にあるよりも擦り切れていて、青春の日々が甘酸っぱい味と共に思い出された。  やがて、透明な衣装ケースの上にポツンと、分厚く黒い平面状の機器が鎮座しているのを見る。ノートパソコンだ。  叔母さんが利用していた旧式のパソコン。確か高校生の時、買い替えのタイミングで譲り受けたお古だ。十年以上の時を経て改めて見ると、その厳つい形状と大きさに苦笑が浮かぶ。昔のノートパソコンはとても重たくて、持ち歩くだけで肩が痛くなりそうだ。  私は、時代を感じるパソコンに充電器を差し、しばらく待った。ダメで元々と思いながらスイッチを押す。途端に、苦しげで今にも煙が出そうな駆動音がして、画面がぱっと明るくなった。  まさか、まだちゃんと動くなんて!  私は少し高揚した気分で、有線のマウスを操作する。もちろん光学式ではなくボール式なので、テーブルの上を、マウスの裏側についた球体がゴロゴロと転がった。  その懐かしい振動に右手を預けつつ、私はフォルダ内に保存されていた幾つかの文書ファイルを開いた。  パスワードがかかっていたけれど、試しに普段から使用している四桁の数字を打ち込んでみたところ、十秒近く待たされてから、文字の羅列が画面いっぱいに映し出された。  びっしりと、妙に行儀の良い蟻の行列のように並んだ明朝体の黒。束の間、思考が停止した。何行か目で追って、それが物語だと気づいた時、私の胸の中には何とも形容し難い、切なさと温かさが湧き上がって来た。  小説だ。いや、正確には、小説と言えるような代物ではないのかもしれないが、これを書いた当人は、小説を書こうとしていたのだ。  たどたどしく綴られた言葉を、ゆっくりと目で追う。今ならばもう少し上手く書けるだろうと思える文章ばかりだが、不意に現れる、若く柔軟な感性に彩られた描写には、時折はっとする。  肝心の物語は途中で尻切れとんぼになっていて、ヒーローもヒロインも何を成し遂げるでもない。彼らの人生は旅半ばで途切れている。流れる時の中、書き手が彼らの存在を忘れ去ってしまったからだ。  彼らは閉じられた古めかしい機械の内側で、ただ静止して、時が訪れるのを待っていた。誰かが物語を紐解き文字を追い、鮮明な姿で彼らを脳裏に映し出し、その笑顔や苦悩を思い浮かべて命を吹き込んでくれるその時を。  ああ、私は昔、小説を書くのが好きだったのだ。  心の中の、知らずに欠けてしまった部分が満たされるように、熱い思いが蘇ってきた。  文字を綴るのを辞めたのは、高校を卒業し、大学に入学する頃だった。  そういえば高校時代には、当時流行っていた携帯小説サイトに拙い文章を投稿していた。私が生み出したキャラクターたちが、見知らぬ誰かに読まれることで、命が吹き込まれる。その経験がとても嬉しくて、当時はたくさんの物語を生み出したものだ。  小説家になりたいと思ったこともあったけれど、周囲の目を気にする質であった私は、小説を書くのが好きであることに恥ずかしさを覚えていて、その趣味を誰にも告げたことはないし、何の行動にも移さなかった。  そのまま大学に入学して、勉学やアルバイトにサークル活動と、実生活が充実することで、脳内で何かを創造するという内向的な趣味はどこかへ消えて行ってしまい久しい。  けれど、私は思う。お家時間が増えたこの時期に、かつて私の頭の中で笑って泣いて飛び跳ねていたヒーローたちと再会できたことは、大きな転機なのではなかろうか。  胸の奥に沸々と、情熱が生まれ始める気配がした。  もう一度、彼らを描き、その旅路の結末を綴りたい。そうして生み出された彼らという存在を、多くの人に見つけてもらい、それぞれの読者の胸の中に、読み手毎に少しずつ異なる響きを残したい。  私が書かなければ、文字で形作られた彼らの人生は進まない。そして誰かが読んでくれなければ、彼らは生き続けることができないのだ。  ――その年、世界中で蔓延した新型のウィルスが、人々の生活を大きく変えた。自分を見つめ直す機会を得た人も多かったことだろう。  幸いと言うべきか、大人になり図太さを手に入れた私は、小説を書く趣味は決して照れるようなことではないのだと、気づき始めていた。  私は画面に並んだ文字に向かって囁いた。「久しぶり、みんな。久しぶり、私の好きなこと」  これからも私は五十音を組み合わせて人生を編み、彼らを生かしてくれる人々のところへと物語を送り出していく。 〈完〉
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