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【序】追跡
――すんっ。
端末の装着者が鼻を鳴らす微かな音を、集音マイクが拾い上げた。
同居人の柴本は、犬狼族の獣人のなかでも飛び抜けて鋭い嗅覚を持っている。本気になった彼から逃れるのは至難の業だ。一緒に暮らしてきたわたしは、そのしつこさ手強さを幾度となく間近で見てきた。
体から放散する匂いを巧みに嗅ぎ分けて、目の前にいる相手の健康状態や感情の変化――ときには嘘すらも見抜く。嗅覚判定士の資格を持つ同居人にしてみれば、さほど難しいことではないのだろう。人間であるわたしには到底、真似できるものではない。
柴本の端末に侵入した"蝶"――わたしの一部分でもあるサポートAI――が送信してくれる情報に、意識を集中する。強引な接続のせいか少しだけ頭が熱い。この覗き見行為がバレてしまったら、いつもわたしには優しいあの男は一体どんな顔をするのだろうか。今は考えないことにした。
ウェアラブル端末のカメラは夜の繁華街を映し出している。店舗の看板や建物はなんとなく見覚えがあった。
現在位置は河都市の中心部に近い一角、居酒屋や飲食店が集中する辺りだろうと察しがつく。もっともGPSの情報を参照できるから、わざわざ映像から推測する必要などないのだけれど。
金曜日の夜更け、繁華街。大勢の人々が行き交ってゆく。
人間も獣人も。男性も女性も。嬉しそうな人も、寂しそうな人も。皆、自分や親しい誰かのことで手一杯の様子だ。まさかすぐ近くに、人食いの怪物が潜んでいるかもしれないなどとは、彼らの誰も想像すらしていないのは明らかだった。
端末装着者の生体情報が、映像や音声とともに送られてくる。心音や呼吸の間隔、脈拍数に体温の推移。周囲の浮かれた人々とは対照的に、落ち着き払い隅々までコントロールされ尽くしている。その様子は獲物を見定め、追跡を試みる猟犬のそれを思わせた。
もう小一時間ばかり、柴本はひとりの人物を追い続けている。映像の中心に映り続けるのは、人間種の男性。後ろ姿は平凡で目立たなすぎて、特徴と言える要素がまるで見出せない。
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