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「いらっしゃいませ、ようこそ四ッ足旅館へ」
すっかり面食らって言葉を失っている。駅へ迎えに来てくれた旅館の送迎バスに乗ること十数分。よく手入れされた植木を眺めながらしっとり濡れた石畳を歩き、趣のある玄関の引き戸を開ければ──。
黒猫が僕を出迎えた。いや、黒猫のように見える人間と言えばいいのか。引き戸を開けてくれたのは、柔らかそうな桃色の、紛れもなく肉球だ。
こなれた様子で出迎えの挨拶をする、旅館の主人然とした佇まい。着物の袖から伸びる柔らかそうな黒い毛並み。そして顔を見れば、にゃんとも可愛らしい黒猫そのもの。
着こなしや何となくの雰囲気で、男性……だと見て取れる。猫主人が口角を上げて目を細めた。笑っているつもりのようだ。
「お客様を驚かせてしまったようで大変申し訳ございません。お好みの姿で接客させて頂きます」
猫主人はくるりとその場で宙返りをした。軽々とした動きの次に現れたのは、歌舞伎俳優のようにすっと目鼻立ちの整った男性だ。ちなみに猫耳は付いたまま。
「猫の方がよろしかったでしょうか。最近は猫の姿に喜んで下さるお客様も多く」
「あ、いや。人間の方で」
「かしこまりました」
お部屋へご案内致します、どうぞこちらへ。
すっと伸ばされた指先も人間のそれに変わっていた。言われてみればさっきの肉球でも良かったかもしれない。僕は少しだけ後悔をした。
違う違う、問題はそこじゃない。そもそもこの旅館で良いのかどうかだ。だが断るにしても、他人とかかわるのが苦手な僕には、上手い言葉が思い浮かばない。この場合は猫だからいいのか。よく分からなくなってきたな。
考えが頭の中をぐるぐる駆け巡るうちに、離れの一室へ通された。
──素晴らしい眺めだ。
隠れ家のようなこぢんまりとしたつくりの離れは、そうは言っても一人には贅沢な広さだ。からからと引き戸を開ければ、足元の灯りが雰囲気を演出してくれる踏込。猫主人の開けてくれたふすまの先にはゆったり寛げる客室。そして客室から延びる広縁には、いかにも年季の入った応接セット。
何と言っても僕の目を釘付けにしたのは、広縁から直接降りることの出来る専用の露天風呂だ。露天風呂の周りは玉砂利と竹囲い、植木が風情を醸し出している。
「お風呂はいつでも好きな時間にご利用いただけます。プライバシーにも配慮しておりますのでお気兼ねなくお寛ぎ下さいませ」
「は、はい」
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