猫の手貸します名旅館

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「こちらのお部屋は、かの文豪もよくお使いになられていました。そちらのテーブルで、あの名作が生まれたのでございます」 「え、え、かの文豪……ってあの明治の」 「ええ左様でございます。実は私も少しばかり登場など……ふふ」  処理しきれない情報量に、僕の脳はすっかりキャパオーバーである。   「お夕食はお部屋にお持ち致します。何時頃がよろしいでしょうか」 「あ、えっと、ううん。どうしようかな……」 「お任せいただけるようでございましたら、そうですね。七時ではいかがでしょう」 「じゃあそれで」 「かしこまりました。それでは、お夕食の時間までどうぞごゆっくりお過ごし下さいませ」 「は、はい」    すっと畳に指をついて一礼をすると、猫主人はふすまをしめて部屋を出た。一人になった僕の耳に、庭の葉ずれ、湯の流れる音だけが聞こえてくる。  頭の整理をしよう。ペットボトルのキャンペーンに当選して、湯河原の四ッ足旅館へ一泊しに来たしがない数学教師の僕。有名な旅行予約サイトにも載っている老舗高級旅館へ一泊二食付きの小旅行の筈だった。猫主人がいるなんて説明は、勿論どこにも書いていない。    よし、一旦落ち着こうか。座卓に座り、お茶を淹れることにする。盆の上に置いてある一筆箋には、『美味しいお茶の淹れ方』が書いてあった。えらい達筆だ。    ポットに適温の湯が入っております。お湯を湯呑みに入れて下さい。お湯を? まあ書いてある通りにやってみよう。茶筒に入った茶葉を急須に入れます。茶さじ一杯で二人分。じゃあ半分でいいか。そこに湯呑みの湯を注いで下さい。なるほど、これで一杯分が分かるのか。茶葉が開き、味が出るまで待ちましょう。スマホのタイマーを一分にセットして、と。急須をゆっくり回しながらお茶を湯呑みに注いで出来上がりですにゃん。にゃん!?  一筆箋の最後には肉球の形のスタンプが押されている。落款のつもりだろうか? そのフォルムの可愛らしさに思わずにっこり……そうか、あの猫主人が書いたのか。    座布団はふかふか、お茶はとても美味しい。外はすっかり日も落ち、ライトアップされた庭に露天風呂の湯煙が浮かび上がる。    うん。まあ、いいか。  黒猫が喋ろうが、猫が主人だろうが、この旅館が素晴らしいことに変わりはない。夕食まであと一時間。とりあえず……何も考えず露天風呂に入ろう!
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