猫の手貸します名旅館

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 湯がこんこんと注ぐ贅沢な掛け流しの岩風呂に身を沈めれば、玉砂利に湯が溢れ出す。なんという贅沢。  岩肌に両腕を伸ばし、昇る月を眺めるうちに、身体と心の疲労が湯に溶けてゆくのがしみじみと分かる。    晩秋の夜風が顔に心地良く、首から下は丁度良い湯加減。無色透明で刺激の少ない泉質は、温泉ほぼ未履修の僕にはありがたい。これはいつまでも入っていたいお湯だ。  日頃の不満だとか自分自身への鬱憤だとか、そんなものすべてがどうでもよくなっていく。そうだ、この旅館の主人が猫だっていいじゃないか。    月が少しずつ明るさを増すにつれ、植木の向こう側が闇色を濃くしていく。辺りはすっかり夜だ。  大変だ。そろそろ夕食の時間になってしまう。僕は岩風呂を出て身体を拭き、広縁の応接セットに掛けておいた浴衣に着替えた。    芯からあったまったせいか、浴衣一枚でも身体はぽかぽかだ。備え付けの冷蔵庫から取り出した冷たいペットボトルのお茶で喉を潤しつつ、文豪が座ったという椅子でしばしクールダウン。    少しして、『失礼致します。お夕食をお持ちしました』との声と共に、引き戸の開く音がした。慌ててだらけた浴衣の合わせを整える。  先に入って来たのは猫主人。後ろには仲居さんが二人、お盆に料理を乗せて運んで来た。当然のように、仲居さん達の頭にも猫耳が生えている。やっぱりか。  だがそんなことより今、僕の目はお盆の上の料理に釘付けだ。お、美味しそう。  仲居さんが僕の前に先付の載った皿と小さめのワイングラスを置くと、今度は猫主人が手に持っていたワインボトルから山吹色の液体をグラスに注いだ。ワインボトルのラベルには、つんと澄まし顔の黒猫のイラストが描かれている。細かいところまで抜かりがない。   「こちらは山梨県のワイナリーで作られたシャルドネという品種のワインでございます。和の食材にもよく合う辛口になっております。先付は、相模湾で獲れた鯵のなめろうを洋風にアレンジしました。ブルスケッタに乗せてお召し上がり下さい」 「いただきます」  まずはワインをひと口。リッチな味がする。僕にワインの舌がなくて本当に申し訳ない。美味い。なめろう乗せを口にしたあと再びワイン。合う。和食とワイン、合う。    食べ飲み進めているうちに、いつの間にか猫主人が次の料理をテーブルの上に並べてくれていた。
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