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第一章『ここはどこですか?』
大陸の東に位置するオラザバル王国。海に面しているため航路を使った他国とのやり取りが盛んである。特に、北にあるデオール王国とは陸上と海上の双方によって、友好な関係を築いている。
オラザバル王国の王都であるガザニアでは、つい先日、王国騎士団の団長を務めるランスロット・ハーデンが結婚をしたという話でもちきりだった。さらに、その婚礼の儀の最中に暴漢が現れ、彼の新妻が襲われたという話は、オラザバル王国だけでなく、隣国のデオール王国にまで伝わっていた。
そして、その新妻が意識を取り戻さない――と。
◆◆◆◆
彼女が気を失ってから、十日が過ぎようとしていた。
ランスロットは今年で三十二歳になり、半年の間、清いお付き合いをしていたシャーリーと十日前に結婚をした。
だがその婚礼の儀当日に、ランスロットに恨みを持つ男が現れ、彼を亡き者にしようと動いたのだ。
祝いの場で全ての者が気を緩めているときに、すぐさまその異変を感じ取ったのがシャーリーであった。
彼女はランスロットを庇うようにして暴漢の前に立ちはだかり、その彼女を邪魔であると思った暴漢の手に寄って、大階段の下まで転げ落ちた。
恐らく、その時に頭を強く打ったのだろう。
それ以降、彼女は目を覚まさない。
ランスロットも、儀式の後の初夜であんなことやこんなことを楽しみにしていたし、結婚休暇中に二人で旅行をし、あんなことやこんなことも楽しみにしていた。
だが、そんなことはどうでもいい。何よりも、彼女の声を聞くことができないことが辛かった。
「大丈夫ですよ」と優しく微笑んでもらいたかった。
もしかしたら、このまま一生目を覚ますことはないかもしれないと、医師から告げられたときも「そんなことはない」と心の中で反論したほどだ。
心臓は動いている。呼吸もしている。だが、その目は閉じたままで、言葉も発さない。
ただ、眠っているように見える。すぐにでも目を覚ましそうだ。
彼女の薄紫色の髪は、寝台の上に綺麗に広がっていた。
ランスロットは、毎日眠っているシャーリーの髪を梳かし、顔や手足を蒸らしたタオルで拭いている。
彼女の身体に触れながら声をかけてみるものの、彼女の澄んだ青い瞳を見ることはできなかった。
「いってくる」
背中を丸め、屋敷を後にするランスロットには『燃える赤獅子』と呼ばれるような威厳など、まったく感じられない。
眠り続ける彼女の側にいたかったランスロットであるが、使用人たちからは「鬱陶しい。奥様の世話は私たちがいたしますから、旦那様はさっさと仕事へ行ってください」と追い出され、こうやって目の前の書類と格闘する羽目になってしまった。
一定の間隔で書類に押印し、書類の束をばさばさと捌いていく。
ふと顔をあげれば、シャーリーが笑顔を返してくれるような気がして、余計に胸が痛む。
シャーリーはランスロット付きの事務官である。結婚した今も、それは変わらないはずだった。
明るく落ち着いた色調であるこの執務室も、どんよりとした空気に覆われていた。まるで、この空間だけ霧がかかっているような、不穏な空気だ。その空気を作り出しているのは、もちろんランスロットであるのだが、彼自身はそれすら無意識である。
だからこの部屋には、誰も入ろうとはしない。
ランスロットが規則正しく書類に押印する音が響いているだけだった。
それでも彼は、押印しながら愛する妻の名を、心の中でしきりに呼んでいた。
(シャーリー)
ポン。
(シャーリー)
ポン。
(シャーリー)
ポン――。
ランスロットが書類と格闘している間、彼の部下たちはあの暴漢から話を聞き出そうとしていたようだ。だが、彼は何も話さないらしい。
ランスロットが暴漢の担当にならなかったのは、彼が命を狙われた立場であり、今回の事件に巻き込まれたのが彼の妻であるためだ。関係者は、その事件を担当することができない。
だからこそ、もどかしかった。
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