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今日は、彼女がいないからお菓子はない。このお茶だけだ。
だったら、この場で飲んでも問題はないだろう。
立ったまま、手にしたカップに勢いよくお茶を注ぎ入れる。
お茶は跳ね、カップの中でぐるぐると渦を巻いていた。
乱暴に口元へと運んだが、まだ熱くて飲めない。
「くそっ」
見るからに色の濃いお茶を、ワゴンの上に置きなおした。
(俺は、シャーリーがいないと、まともにお茶を淹れることもできない……。シャーリー、戻ってきてくれ……)
屋敷にいても、ここにいても、思い出すのは妻となった彼女のことばかり。
お茶を飲むことをあきためたランスロットは、もう一度たまった書類とむきあうことにした。
だが、どうしても捌くことのできない書類の山がある。それは、金勘定関係の書類だった。
こればかりは自分一人でできるものではない。
そろそろあきらめ、他の事務官を頼ることにしようと、そう思ったとき、廊下からはバタバタとわざとらしい足音が聞こえてきた。
「おい、ランスロット」
ノックもせずに不躾に扉を開けることを許されるような人物は、一人しかいない。
「シャーリーが目を覚ましたらしい」
ガタガタッと、ランスロットは音を立てて椅子から立ち上がった。
「ジョシュア。それは……、どういう意味だ?」
ランスロットの執務室に現れたのは、オラザバル王国の王太子であるジョシュア・オラザバル。ランスロットは彼の乳兄弟として育ち、幼い頃から気を許し合った仲である。
ランスロットが『燃える赤獅子』という二つ名で呼ばれているなら、金髪碧眼のジョシュアは『眠れる金獅子』と呼ばれている。
普段は爽やかな笑みを浮かべているジョシュアであるが、敵と認識した相手には、容赦がないため、『眠れる』と表現されているのだ。
カツカツと乱暴に足音を立てながら、ランスロットはジョシュアに詰め寄り、彼を見下ろした。
ジョシュアだって、けして背が低いほうではない。特別高い方ではないけれど、成人した男性の平均よりは少し高い方だ。
それでもランスロットがジョシュアを見下ろす形になるのは、彼の方が十センチ以上も背が高いためである。
「笑えない冗談はやめてくれ……」
「冗談ではない。今、お前の屋敷から使いが来た。だから代わりに、私が話を聞いておいた」
どうしてそのような流れになるのか、ランスロットには全くわからない。使いが来たのであり、ましてそのような内容であれば、ここまで案内するのが筋ではないのか、と。
「お前が荒れているから、事務官も怯えてこの部屋に入りたがらない。だから私が間をとりもったのだ」
ジョシュアの今の話も聞き捨てならない。事務官が入りたがらないとは、一体どのような状況なのか。
「ランス。お前の顔、怖いから。その顔なら、私もお前に近づきたくないから。いつ噛みつくかわからないような顔をしている」
「俺を手負いの熊のように言うな」
「肉が食べられるだけ、熊の方がマシだ」
ランスロットは、むっと口を結んだ。今はこんなくだらないことを口にしている場合ではない。
「それで、シャーリーが目を覚ましたというのは本当なのか?」
それがランスロットにとっては重要な話題なのだ。熊肉など、どうでもいい。
「ああ、本当だ。お前のとこの若い奴が、大興奮しながら『旦那様に、会わせてください。お伝えしたいことが……』って。あの使用人、かわいいな。男なのが残念だったが」
ジョシュアの言葉で誰がやってきたのか、ピンときた。執事のセバスの息子であるガイルだ。十四歳になったばかりの少年。恐らく足の速さと若さで、今回の伝令役を頼まれたのだろう。
となれば、シャーリーが目を覚ましたというのも、あながち嘘ではないようだ。
「帰ってもいいか?」
ランスロットはジョシュアを見下ろしながら、恐る恐る尋ねた。大きな体を小さく丸めて、おどおどとしている。
「ああ、帰れ。手負いの熊以下のランスは使い物にはならないからな。事務官たちも怯えて、そっちも仕事にならない。だから、さっさと帰れ」
「ああ、わかった。帰る……。そう、皆には伝えてくれ」
屋敷の者からは「仕事に行け」と追い出され、仕事場では「帰れ」と言われ。
燃える赤獅子であるはずのランスロットは、まるで燃え尽きた灰のように呆けた顔をして、屋敷へと戻った。
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