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「王国騎士団の団長のお屋敷ですか?」
シャーリーが尋ねると、そうです、と彼女は頷く。
(あれ? だけど、団長は独身のはず……。奥様って誰?)
「申し遅れました。私は、奥様付きの侍女、イルメラと申します」
イルメラは深く頭を下げる。だが、肝心の奥様は見当たらない。むしろ、その奥様付きの侍女が、シャーリーの世話をしようとしていることに疑問すら感じる。
「シャーリー様は、ハーデン家の当主であるランスロット様とご結婚をされておりますので、奥様とはシャーリー様のことになります」
シャーリーはイルメラの言葉を聞いていたけれど、内容は頭に入ってこない。
「あの、イルメラさん……」
「どうか、イルメラとお呼びください」
そう言われても、シャーリーには抵抗がある。何しろ、相手はシャーリーが知らない女性なのだ。困ったように目尻を下げると、イルメラも困ったような表情をする。
「奥様……。やはり、覚えていらっしゃらないのですか?」
覚えていないも何も、この部屋にいる人物は誰一人知らない。
「はい……。イルメラさんとは初対面だと思いますが。それから、そちらの……」
「セバスです」
セバスが頭を下げた。
「奥様は、男性が苦手でいらっしゃいます。あのセバスでさえ、奥様と話をするには、三歩ほど離れる必要があります。奥様が触れることができる男性は、旦那様のみなのです」
シャーリーが、男性が苦手であるのは事実だ。だから、先ほどセバスが近づいてきたときに逃げようとした。実際は、あれ以上逃げることができなかったが。
「ですが、先ほどセバスが奥様と三歩ほど離れて話をしようとしたところ、奥様は六歩の位置で驚かれました」
それはセバスが男性だからだ。見知らぬ男性が五歩圏内に入ってこられると、警戒してしまう。
「奥様。思い出せませんか? 私のことも、セバスのことも」
問われても、残念ながらシャーリーにとっては初対面の二人だ。
「はい……」
そう答えることすら申し訳なく感じる。
イルメラはセバスと顔を見合わせた。
「奥様。医師を呼んでまいります。診察を受けてもらえますか?」
「はい」
医師の診察であれば、断る理由もない。
現れたのは女医だった。男性が苦手であるシャーリーに配慮したのだろう。
いくつか問診をされ、胸の音を確認され、手首や首筋も触診された。女医ということもあり、シャーリーも嫌悪感なく診察を受けることができた。
「特に、異常はありませんね。薬の必要もありません。ですが、少しだけ記憶を失っているようです」
女医は淡々と説明する。
「奥様は、ここ二年間の記憶を失っているようです」
二年間の記憶――。
シャーリーは、女医の質問に「今は、アランデ歴九八七年」と答えた。だが、女医から帰ってきた言葉は「アランデ歴九八九年」であり、それを証明するかのように、今日の新聞を広げた。
そこにははっきりと「アランデ歴九八九年」と書かれていた。シャーリーを騙すにしても、ここまで手の込んだいたずらをするとも思えない。となれば、やはり今は「アランデ歴九八九年」なのだろう。
「それ以外の記憶ははっきりとしておりますので、日常生活を送る分には、なんら問題はないと思います。普通に生活をしていれば、そのうち記憶を取り戻すでしょう」
女医はそう言うと、頭を下げて部屋を出ていった。
寝台の上で、シャーリーは困惑するだけだった。
イルメラは「落ち着かれるように、お茶でも淹れます」と慣れた手つきでお茶の準備を始めた。セバスは女医を見送るために、部屋を出ていったままだ。
カチャカチャと、お茶を淹れる音だけが静かに響く。
部屋が静かだから、気がついた。廊下が慌ただしいことに。ドスドスと激しい足音を立てて、誰かが走っている。その足音が部屋の前で止まったかと思うと、勢いよく扉が開いた。
「シャーリー」
「ハーデン団長」
どしどしとランスロットは絨毯を踏みしめ、大きな寝台へと近づいてくる。そして、いきなりシャーリーを抱き締めた。
お茶の準備をしていたイルメラは、ランスロットの行動に気づくのが遅れたようだ。
「旦那様、奥様は今……」
そう言いかけたときには、すでに彼はシャーリーを抱き締めていたのだ。
「シャーリー、シャーリー。無事でよかった。君に会いたかった。もう一度、俺を愛していると言ってくれ。君の声が聞きたくて、俺は、俺は……」
「きゃぁああああああ」
シャーリーのつんざくような悲鳴が響いた。
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