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イルメラがシャーリーを抱き締めているランスロットを引きはがす。
「何をする、イルメラ」
「旦那様、はなれてください」
「自分の妻を抱き締めて、悪いのか」
「はい、悪いです」
「なぜだ」
「奥様は、記憶を失われておりますので」
「何?」
シャーリーは身体を強張らせて、震えることしかできなかった。とにかく、怖い。ただそれだけだ。
すかさずイルメラがランスロットとシャーリーの間に入り込む。
「そういうことです、旦那様。奥様は、ここ二年程の記憶を失われているようです」
「二年、だと?」
「ですから、奥様は旦那様のことを旦那様であると認識しておりません。あのセバスですら、六歩の距離から近づくことができませんでした」
「な、なんだと? いつもなら、三歩離れた距離ではないか」
「だからです。ですから、旦那様も六歩お下がりください。これ以上、奥様に嫌われたくなければ」
それでも納得がいかないとでも言うかのように、彼はシャーリーを見つめている。
シャーリーは顔を上げることすらできない。すぐそこに、男の人がいる。それだけで、震えが止まらないのだ。
「旦那様、六歩下がる」
イルメラの言葉に、渋々とランスロットが後ずさりした。
「奥様、大丈夫ですか? 大きな男ではありますが、旦那様なのです。奥様は、旦那様と結婚されたのです」
シャーリーはふるふると頭を横に振る。
(信じられない。私が、男の人と結婚しただなんて……)
「嘘……。嘘よ、嘘……」
心の中で思っていたことが、つい口から告いで出てしまったようだ。
「嘘ではない」
六歩離れたランスロットが大声をあげる。その声に驚いたシャーリーは、またビクンと身体を震わせた。
「旦那様は声が大きいですから。ですが、大丈夫ですよ、奥様。私がおりますので。旦那様も、奥様を驚かせるようなことは口にしないでください」
イルメラはシャーリーに好意的だ。記憶を失い、本当に彼の妻であるかどうかさえ覚えていないにも関わらず、こうやってシャーリーとランスロットの間に入ろうとしてくれる。
「奥様を逃したら、もう二度と旦那様と結婚してくださるような女性はおりませんよ? ここは、ゆっくりと奥様が記憶を取り戻すことを、優先させるべきではないのですか?」
イルメラがビシっと口にすれば、ランスロットは「うぅ……」と悔しそうに歯を食いしばっていた。
だが、それでも納得はいかないらしい。部屋の壁際に置かれている机の中から、ごそごそと何やら取り出すと、それをイルメラに手渡した。
「これを、シャーリーに」
イルメラを経由して、シャーリーの手元に渡った一枚の用紙。何が書かれているのか不思議に思い、シャーリーはそれに視線を落とした。
「え、結婚、宣誓書……?」
結婚宣誓書は、二通作られる。婚礼の儀に立会人の前で同じ宣誓書にサインをする。そして、一通は大聖堂で保管され、もう一通はこうやって自分たちで保管するのだ。
そして、その結婚誓約書に書かれていた名前は、間違いなくランスロットとシャーリーの名だった。
「うそ……」
シャーリーに記憶はない。
「偽造……」
そのような考えが頭をめぐる。誰かが、シャーリーの名を語って、誓約書にサインをしたに違いない。
「うそでも偽造でもない。君は、間違いなくそれにサインをした。筆跡も確認しろ」
荒ぶった声でランスロットが口にしたため、またシャーリーは肩を震わせた。
「す、すまない。怒っているつもりも、驚かせているつもりもない。ただ、俺はこんな性格だから」
「寮に……、寮に戻ります」
シャーリーは、王城勤めの者たちが共同で生活をする寮に住んでいた。もちろんその寮は、女性だけが暮らしている寮である。
「女子寮に君の部屋はもうない。俺と結婚したからな」
「そんな……」
シャーリーは顔を伏せて、毛布をぎゅっと掴んだ。
「奥様」
不安なシャーリーを、気遣うように声をかけてくれたのはイルメラである。
「幸いなことに、ここには衣食住が揃っております。まずは、ここでゆっくりと静養されてから、今後のことをお考えになってはいかがですか?」
その言葉に、はっと顔をあげたシャーリーはイルメラの顔を見つめた。彼女は満足そうに頷いている。それから、恐る恐るランスロットに視線を向けると、彼は怯えたようにシャーリーを見つめながら、「そうしろ」とだけ言った。
『燃える赤獅子』の二つ名を持つランスロットの怯えたような姿が、なぜかシャーリーの心に突き刺さった。
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