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見頃の時期はいつなのか、咲いている場所は他にあるのか。
桜に関して造詣が深いらしい玉月さんは、わたしの問いに一から十まで答えてくれた。
不思議なもので、桜を介すと話しやすかった。
玉月さんも、桜の話題になると受け答えが柔らかくなった。
たとえ錯覚でも、玉月さんと分かち合えるものが出来たことが、わたしは嬉しかった。
「───ふぅ、素晴らしい眼福に与ったわ。
付き合ってくれてありがとう、玉月さん」
「恐れ入ります」
名残惜しくも庭園を後にし、二人揃って座敷に上がる。
わたしの緊張がぶり返してはいけないと配慮してか、玉月さんは引き戸を開けたままにしてくれた。
「(あれは……)」
玉月さんが身を翻した瞬間、羽織の裾から見え隠れしていた刀が露になった。
大きめのと、小さめのが一本ずつ。
どちらもよく磨かれているが、大きめの方がやや使い込まれている。
なるほど、用心棒。
女性ながら、肩書きは伊達じゃなさそうだ。
「姫様」
「はい?」
「ここ。衿のところと、たれの部分。僅かですが乱れてます」
「えっ、ほんとう?」
背後に回った玉月さんに指摘される。
着衣の乱れは確認済みだが、自力では見落としがあったようだ。
「お嫌でなければ、私が直します」
「いいえそんな、これくらい自分で────」
「ご自分では手の届かない位置ですし、手鏡を用意するにも時間が足りないかと」
「そ、そうなんです、か」
「大丈夫。女人同士とて、不用意に触れることは致しません。
上様への目通りも控えていますから、どうぞ貴女は、そのままに」
「……わかりました。お願いします」
玉月さんに促され、わたしはその場に気を付けした。
お世話係というだけあり、玉月さんは手際よく、わたしの着衣を正していった。
伊達衿の次は、帯のたれだ。
「……玉月さん?どうかしました?」
玉月さんが途中で動かなくなった。
わたしは気を付けしたまま、玉月さんに呼び掛けた。
「来ます」
わたしの耳元で囁いた玉月さんは、一歩後ろへ引き下がった。
直しは既に終わったようだ。
「あ……?ありがとう、ございました……?」
"なにか"が来るのか、"誰か"が来るのか。
玉月さんの視線の先を辿ってみると、特に変哲のない障子戸があった。
庭園とを隔てた引き戸が二ノ丸側であるのに対し、障子戸は本丸側とを隔てたものだ。
そこへ、なにやら引きずるような足音が聞こえてきた。
障子戸の向こうから、真っすぐに座敷へと近付いて来る。
恐らくは、男が寄越すと言っていた案内の者だろう。
つまり玉月さんは、わたしが気付くずっと前から、気配に備えていたわけか。
なんて感度の鋭さだ。
「───長らく、お待たせしました。
上様のお膝元へお連れしたく参りました。支度の程は如何でありましょうや?」
足音が座敷の前で止まり、障子戸越しに伺いを立てられる。
細く低い声からして、案内の者は古希前後の男性と思われる。
「済みました。今そちらへ行きます」
いよいよか。
落ち着きを取り戻したはずの心臓が、当初とは違う律動で再び騒ぎ始める。
「姫様」
玉月さんが心配そうに、わたしの顔を覗き込む。
わたしは一つ深呼吸をし、自らを鼓舞するために両の頬を軽く叩いた。
「よし。行きましょう」
玉月さんを伴って座敷を出ると、腰の曲がった老夫が待っていた。
老父はわたしに向かって一礼し、わたしもすかさず一礼を返した。
「謁見の間までご案内しますので、私の後に来てくださいますか?」
「はい。お願いします」
わたしに一言断った老父は、廊下を北へ進んでいった。
わたしと玉月さんは、老夫の歩調に合わせて追随した。
「───おい、あれ」
「ああ」
物々しい黒装束の男達と擦れ違う。
座敷へ通された際には見掛けなかったが、城を守る兵士だろうか。
玉月さんとは身なりが異なるので、帯刀は共通しても役職が別なのは明らかだ。
家臣や女中らしき人達とも擦れ違い、石造りの上品な中庭を越えていくと、廊下の突き当たりに行き着いた。
この山水柄の襖こそが大広間、老父いわく謁見の間への入口か。
「───この奥にて、上様がお待ちです。ご準備はよろしいですかな?」
足を止めた老父が、こちらに振り返る。
「(ここを開けたら、もう二度と───)」
わたしは無意識に袖口を握り締めた。
すると玉月さんが背中を擦ってくれた。
おかげで呼吸が楽になった。
「どうぞ」
玉月さんに感謝の目配せをしてから、老父に返事をする。
頷いた老父は、大広間にいる上様に対して、到着の旨を知らせた。
「上様。お連れ致しました」
「おお、待っていたぞ。入りなさい」
柔らかい低音。上様の声か。
若く親しみ易そうではあるが、実際の人柄やいかに。
「いきます」
老父が襖に指をかけ、ゆっくりと横に滑らせる。
八十畳はあろうかという空間に御座すのは、上様その人と思しき殿方だった。
「よくぞ参った。
さ、遠慮せず。近う寄りなさい」
鮮やかな照柿の衣装を着込み、脇息に凭れかかった姿勢で、来い来いと手招きをする上様。
声の通りに、若々しいお姿をされている。
これで、わたしより一回りも年上というのだから驚きだ。
「失礼します」
上段の間まで歩み寄っていく。
玉月さんは付いて来てくれたが、老父は御役御免と退いた。
「そなたは"これ"に」
"これ"と上様が促したのは、高価そうな紅の座布団だった。
上様が掛けておられる座椅子と脇息の生地も、同じ色で統一されている。
いくら招かれた立場といえど、お殿様と同等のものを使わせてもらうだなんて。
恐縮しながら座布団に座ると、玉月さんがわたしの側を離れていった。
行かないでと、つい口走りそうになった。
「いや、遠路遥々やって来たというに、大した持て成しも至らず、すまなかったな」
「い、いいえ。滅相もございません」
「はは、そう硬くならずとも良い」
上様は軽やかに笑った。
「なにも、取って食おうというのではない。もっと楽にしなさい」
「はい……」
「どれ。そなたの口から改めて、名を聞かせてはくれないか?」
わたしは背筋を伸ばした。
「ウキです。雨の希望と書いて、雨希です」
上様は満足そうに上顎を指でなぞった。
「そうか、ウキか。
話に聞いた通り、花も恥じらう可憐さよな」
「かれん、なんて、わたしは全然……」
「謙遜をするな。この私が言うのだから、間違いないのだ」
「はぁ……。恐れ入ります」
やんごとない殿方が相手であるからか、どうにも頭が回らない。
せっかく好意的に接してくれているのに、こちらの気分はまるで蛇に睨まれた蛙だ。
「しかし、そなたのような若い娘には、酷な仕打ちであったな」
「え?」
上様の顔に陰が落ちる。
「郷里の前途を秤にかけたらば、拒めんのも当然だ。
私の身勝手が招いたとはいえ、あまりに顧慮が足らなんだ。まこと、申し訳なかった」
謝られた、のか?
お殿様ともあろう人が、そこらの田舎娘なんかに?
とっさに反応できなかったわたしは、ぽかんと口を開けてしまった。
「いかんな」
意味深な溜め息をついた上様が腰を上げる。
どうしよう、来る。
やっとの思いで、わたしは声を出した。
「あ、あの、上様───」
「いや、いい」
わたしの目の前で膝を折った上様は、わたしの左手を掬いとった。
「そなたの気持ちは、痛いほど伝わっておる。
だが案ずるな。そなたの親も、里も。最後まで、しかと面倒をみる」
「あ……」
「困ったことがあれば、父や兄にするように、頼って構わんのだからな」
本当は、ずっと恐ろしかった。
どこぞのお殿様に嫁ぐと決めた、あの日から。
輿入れなどとは形だけで、手酷い仕打ちが待っているに違いない。
側室とは名ばかりの奴隷には、まともな尊厳が与えられるはずないと。
ところが、どうだ。
わたしの手を握ってくれるこの人は、鬼でもなければ悪党にも見えない。
胸中で張り詰めていた糸が、するすると解けていくようだった。
「ふつつか者ですが、上様。
これからどうぞ、よろしくお願いします」
畏敬の念を込めて平伏する。
上様はふっと笑みを零すと、わたしの頭を撫でてくれた。
「祝言を挙げるのは、もうしばらく先だ。
今はのびのびと、新しい暮らしを楽しむがいい」
「ありがとうございます」
「うむ。───して、才蔵よ」
「はい」
立ち上がった上様は、上座の脇に控える玉月さんに目をやった。
わたしと離れてからというもの、彼女はあそこで微動だにしていない。
「宣告に変わりない。ウキの世話役は、お前に任せる。
なにかあれば逐一、私に報せるように」
「承知しました」
上様が上座へ戻っていく。
玉月さんは上様と入れ替わりで、わたしに近付いた。
「お加減はいかがですか」
わたしの側で屈んだ玉月さんは、上様に聞こえないよう声を潜めた。
「大丈夫です。ご心配をかけました」
わたしが小さく頷くと、玉月さんも頷き返してくれた。
手足に血が巡り、全身が温かくなっていく。
出会って間もないのに、玉月さんが側にいてくれるだけで、わたしは心が安らぐようだ。
「宴の席まで一休みと致しましょう。立てますか?」
「あ、でも、それだと上様が────」
「宴には上様もお見えになりますから、ご歓談はその時にでも」
たった今この時を迎えるまで、不安に押し潰されてしまいそうだったけれど。
憂いていたより、先行きは明るいかもしれない。
「上様。一度下がって構いませんか」
「ああ。羽を伸ばしておくといい。───ウキ、また後でな」
「はい。失礼します」
気掛かりが残るとすれば、ひとつだけ。
先程に一瞬、ほんの一瞬、上様を睨んだ玉月さんから、底深い闇が感じられたということだ。
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