;第一話 桜が、お好きなのですか

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見頃の時期はいつなのか、咲いている場所は他にあるのか。 桜に関して造詣が深いらしい玉月さんは、わたしの問いに一から十まで答えてくれた。 不思議なもので、桜を介すと話しやすかった。 玉月さんも、桜の話題になると受け答えが柔らかくなった。 たとえ錯覚でも、玉月さんと分かち合えるものが出来たことが、わたしは嬉しかった。 「───ふぅ、素晴らしい眼福に与ったわ。 付き合ってくれてありがとう、玉月さん」 「恐れ入ります」 名残惜しくも庭園を後にし、二人揃って座敷に上がる。 わたしの緊張がぶり返してはいけないと配慮してか、玉月さんは引き戸を開けたままにしてくれた。 「(あれは……)」 玉月さんが身を翻した瞬間、羽織の裾から見え隠れしていた刀が露になった。 大きめのと、小さめのが一本ずつ。 どちらもよく磨かれているが、大きめの方がやや使い込まれている。 なるほど、用心棒。 女性ながら、肩書きは伊達じゃなさそうだ。 「姫様」 「はい?」 「ここ。衿のところと、たれの部分。僅かですが乱れてます」 「えっ、ほんとう?」 背後に回った玉月さんに指摘される。 着衣の乱れは確認済みだが、自力では見落としがあったようだ。 「お嫌でなければ、私が直します」 「いいえそんな、これくらい自分で────」 「ご自分では手の届かない位置ですし、手鏡を用意するにも時間が足りないかと」 「そ、そうなんです、か」 「大丈夫。女人同士とて、不用意に触れることは致しません。 上様への目通りも控えていますから、どうぞ貴女は、そのままに」 「……わかりました。お願いします」 玉月さんに促され、わたしはその場に気を付けした。 お世話係というだけあり、玉月さんは手際よく、わたしの着衣を正していった。 伊達衿の次は、帯のたれだ。 「……玉月さん?どうかしました?」 玉月さんが途中で動かなくなった。 わたしは気を付けしたまま、玉月さんに呼び掛けた。 「来ます」 わたしの耳元で囁いた玉月さんは、一歩後ろへ引き下がった。 直しは既に終わったようだ。 「あ……?ありがとう、ございました……?」 "なにか"が来るのか、"誰か"が来るのか。 玉月さんの視線の先を辿ってみると、特に変哲のない障子戸があった。 庭園とを隔てた引き戸が二ノ丸側であるのに対し、障子戸は本丸側とを隔てたものだ。 そこへ、なにやら引きずるような足音が聞こえてきた。 障子戸の向こうから、真っすぐに座敷へと近付いて来る。 恐らくは、男が寄越すと言っていた案内の者だろう。 つまり玉月さんは、わたしが気付くずっと前から、気配に備えていたわけか。 なんて感度の鋭さだ。 「───長らく、お待たせしました。 上様のお膝元へお連れしたく参りました。支度の程は如何でありましょうや?」 足音が座敷の前で止まり、障子戸越しに伺いを立てられる。 細く低い声からして、案内の者は古希前後の男性と思われる。 「済みました。今そちらへ行きます」 いよいよか。 落ち着きを取り戻したはずの心臓が、当初とは違う律動で再び騒ぎ始める。 「姫様」 玉月さんが心配そうに、わたしの顔を覗き込む。 わたしは一つ深呼吸をし、自らを鼓舞するために両の頬を軽く叩いた。 「よし。行きましょう」 玉月さんを伴って座敷を出ると、腰の曲がった老夫が待っていた。 老父はわたしに向かって一礼し、わたしもすかさず一礼を返した。 「謁見の間までご案内しますので、私の後に来てくださいますか?」 「はい。お願いします」 わたしに一言断った老父は、廊下を北へ進んでいった。 わたしと玉月さんは、老夫の歩調に合わせて追随した。 「───おい、あれ」 「ああ」 物々しい黒装束の男達と擦れ違う。 座敷へ通された際には見掛けなかったが、城を守る兵士だろうか。 玉月さんとは身なりが異なるので、帯刀は共通しても役職が別なのは明らかだ。 家臣や女中らしき人達とも擦れ違い、石造りの上品な中庭を越えていくと、廊下の突き当たりに行き着いた。 この山水柄の襖こそが大広間、老父いわく謁見の間への入口か。 「───この奥にて、上様がお待ちです。ご準備はよろしいですかな?」 足を止めた老父が、こちらに振り返る。 「(ここを開けたら、もう二度と───)」 わたしは無意識に袖口を握り締めた。 すると玉月さんが背中を擦ってくれた。 おかげで呼吸が楽になった。 「どうぞ」 玉月さんに感謝の目配せをしてから、老父に返事をする。 頷いた老父は、大広間にいる上様に対して、到着の旨を知らせた。 「上様。お連れ致しました」 「おお、待っていたぞ。入りなさい」 柔らかい低音。上様の声か。 若く親しみ易そうではあるが、実際の人柄やいかに。 「いきます」 老父が襖に指をかけ、ゆっくりと横に滑らせる。 八十畳はあろうかという空間に御座すのは、上様その人と思しき殿方だった。 「よくぞ参った。 さ、遠慮せず。近う寄りなさい」 鮮やかな照柿の衣装を着込み、脇息に凭れかかった姿勢で、来い来いと手招きをする上様。 声の通りに、若々しいお姿をされている。 これで、わたしより一回りも年上というのだから驚きだ。 「失礼します」 上段の間まで歩み寄っていく。 玉月さんは付いて来てくれたが、老父は御役御免と退いた。 「そなたは"これ"に」 "これ"と上様が促したのは、高価そうな(くれない)の座布団だった。 上様が掛けておられる座椅子と脇息の生地も、同じ色で統一されている。 いくら招かれた立場といえど、お殿様と同等のものを使わせてもらうだなんて。 恐縮しながら座布団に座ると、玉月さんがわたしの側を離れていった。 行かないでと、つい口走りそうになった。 「いや、遠路遥々やって来たというに、大した持て成しも至らず、すまなかったな」 「い、いいえ。滅相もございません」 「はは、そう硬くならずとも()い」 上様は軽やかに笑った。 「なにも、取って食おうというのではない。もっと楽にしなさい」 「はい……」 「どれ。そなたの口から改めて、名を聞かせてはくれないか?」 わたしは背筋を伸ばした。 「ウキです。雨の希望と書いて、雨希(ウキ)です」 上様は満足そうに上顎を指でなぞった。 「そうか、ウキか。 話に聞いた通り、花も恥じらう可憐さよな」 「かれん、なんて、わたしは全然……」 「謙遜をするな。この私が言うのだから、間違いないのだ」 「はぁ……。恐れ入ります」 やんごとない殿方が相手であるからか、どうにも頭が回らない。 せっかく好意的に接してくれているのに、こちらの気分はまるで蛇に睨まれた蛙だ。 「しかし、そなたのような若い娘には、酷な仕打ちであったな」 「え?」 上様の顔に陰が落ちる。 「郷里の前途を秤にかけたらば、拒めんのも当然だ。 私の身勝手が招いたとはいえ、あまりに顧慮が足らなんだ。まこと、申し訳なかった」 謝られた、のか? お殿様ともあろう人が、そこらの田舎娘なんかに? とっさに反応できなかったわたしは、ぽかんと口を開けてしまった。 「いかんな」 意味深な溜め息をついた上様が腰を上げる。 どうしよう、来る。 やっとの思いで、わたしは声を出した。 「あ、あの、上様───」 「いや、いい」 わたしの目の前で膝を折った上様は、わたしの左手を掬いとった。 「そなたの気持ちは、痛いほど伝わっておる。 だが案ずるな。そなたの親も、里も。最後まで、しかと面倒をみる」 「あ……」 「困ったことがあれば、父や兄にするように、頼って構わんのだからな」 本当は、ずっと恐ろしかった。 どこぞのお殿様に嫁ぐと決めた、あの日から。 輿入れなどとは形だけで、手酷い仕打ちが待っているに違いない。 側室とは名ばかりの奴隷には、まともな尊厳が与えられるはずないと。 ところが、どうだ。 わたしの手を握ってくれるこの人は、鬼でもなければ悪党にも見えない。 胸中で張り詰めていた糸が、するすると解けていくようだった。 「ふつつか者ですが、上様。 これからどうぞ、よろしくお願いします」 畏敬の念を込めて平伏する。 上様はふっと笑みを零すと、わたしの頭を撫でてくれた。 「祝言を挙げるのは、もうしばらく先だ。 今はのびのびと、新しい暮らしを楽しむがいい」 「ありがとうございます」 「うむ。───して、才蔵よ」 「はい」 立ち上がった上様は、上座の脇に控える玉月さんに目をやった。 わたしと離れてからというもの、彼女はあそこで微動だにしていない。 「宣告に変わりない。ウキの世話役は、お前に任せる。 なにかあれば逐一、私に報せるように」 「承知しました」 上様が上座へ戻っていく。 玉月さんは上様と入れ替わりで、わたしに近付いた。 「お加減はいかがですか」 わたしの側で屈んだ玉月さんは、上様に聞こえないよう声を潜めた。 「大丈夫です。ご心配をかけました」 わたしが小さく頷くと、玉月さんも頷き返してくれた。 手足に血が巡り、全身が温かくなっていく。 出会って間もないのに、玉月さんが側にいてくれるだけで、わたしは心が安らぐようだ。 「宴の席まで一休みと致しましょう。立てますか?」 「あ、でも、それだと上様が────」 「宴には上様もお見えになりますから、ご歓談はその時にでも」 たった今この時を迎えるまで、不安に押し潰されてしまいそうだったけれど。 憂いていたより、先行きは明るいかもしれない。 「上様。一度下がって構いませんか」 「ああ。羽を伸ばしておくといい。───ウキ、また後でな」 「はい。失礼します」 気掛かりが残るとすれば、ひとつだけ。 先程に一瞬、ほんの一瞬、上様を睨んだ玉月さんから、底深い闇が感じられたということだ。
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