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 情けない、と私は我が身をふがいなく思いつつ、思いがけず訪れた幸福な感触に、涙が止まらなかった。シンは、泣きやめと、一度も言わないまま、辛抱強く私のそばにいる。私が彼の部屋にいるのだから、追い出すこともできないのだろう。それは悪いことをしているが、それより、シンの手が、私の頭を優しくなでているそのぬくもりがうれしくて、仕方がない。円卓の椅子を近づけて、私の肩を抱きながら。 「……済みません、取り乱して」 「まあ、驚くよな」  シンは、何気ない様子で、そう返事をする。理由は、問わなかった。私も、うまく、理由を伝えられる気がしない。  ユリ。  シンは、そう彼女の名を一度だけ呟いた。美しい名前だった。シンが、ユリをまだ、愛おしく思っているのは、解る。シンの、あんな優しい眼差しを、私は、知らない。その眼差しを、私が受けたいと思うのと、彼女に向けないで欲しいと思う―――この、どうしようもなく、ぐちゃぐちゃした感情を、私は、シンにさらけ出す勇気がない。 「実はさ、俺がここに来たのは、2022年で、そこから5年経ってるから、向こうは2027年だと思ってたんだけど……、もう、2033年になってた」 「えっ」 「時間の進み方が違うみたいだな。だから」  とまで言って、シンは口を閉ざした。言いたいことは解った。ユリも、結婚をして子供が生まれ、そして幸せに生きているのだろうと。シンが、あの世界から分断されて、10年にもなるのだ。倍近い早さで、時が流れている。 「辛くないのですか」  この質問は、卑怯だった。この聞き方をしたら、辛い、とは言いづらいだろう。 「思ってたより、時間が経過するのは、それほどでもないかな。昔話で、あるんだ。そういう話が。……それと、彼女が俺を忘れて幸せになってくれたことを言ってるなら、それは、強がりでも何でもなくて、良かったと思ってる」 「なぜ?」 「だって……俺のことをさ、ずっと引きずって、死ぬまで一生俺のことだけ思って、独り身で生きていくとか思ったら……俺は、ちょっとやりきれないよ。あの世界に、俺は帰れないんだからさ……、幸せになって貰いたいだろ? 大好きだった人なんだから」  私なら。  多分。  あなたが、消えたら、この世から、自分を消すと思う。  いつから、こうなったのか、私にも解らない。ただ、あなたから、愛情を受けたいと思っていること。それを独り占めしたいこと。それは、もう、ごまかすことは出来なかった。 「彼女が、幸せになれば、あなたの幸せは、良いと?」  それは、偽善的な考えではないのだろうか。私の考えは、顔に出ているのだろう。シンは、困ったように笑ってから、言う。 「強がりとかじゃなくて……本当に、今は、彼女が幸せなら、それで良いんだ。勿論、少し、結婚したときの姿とかを見てると、あの隣に居たのは、俺だったかも知れないんだなとか、思うけど……」  でも、どうしようもない。と。シンは、その言葉を飲み込んだのかも知れない。私は、シンに、言わせなくて良いことまで、言わせてしまった。これは、時間を掛けて、シンが、折り合いを付けていくことだろう。私のような、事情も知らない者が、口を挟むべきことではない。まして、私は、彼をあの世界から呼び込んだ側のものなのだ。 「あのさ」 「はい……」 「彼女も、書いてただろ? 俺は、電車に轢かれて死んだんだ。丁度、女の人が、ホームから落ちて。俺と、あと二人、男の人が、一緒にホームに降りて、別の人が、多分、緊急停止ボタンを押してくれたと思うけど、間に合わなくて、四人で死んだんだよ。でもさ」  私に、解るように、写真を見せてくれた。電車。とても大きな、鋼鉄のような材質で出来た、車。これは、専用の道を走っている。鉄で作られた道だ。それで、決められた昇降先で、乗り降りをするというものだった。一つの車両に、何百人もの人が乗れる。それが何両も連なって人々を輸送するのだという。それだけ考えても、ものすごい重量の物体であることは想像出来る。たしかに、これに轢かれれば、一瞬で、もろい、人の肉体は、砕け飛ぶだろう。 「……この、電車を待つ場所。これをホームって言うんだけど、ここには、俺ら以外にも何十人何百人の人がいた。でも、実際に、降りて女の人を助けたのは、俺ともう二人の男の人だけ。だから、俺は……この世界の事情とか、そんなことに関係なく、絶対に、こういう場面では、助ける方に動いてると思う。それできっと、お前の信じてる神様か何かが、この世界で、一回人生やり直してみろって、言ってくれたんだと思うよ。  だから、あの時点で死んだ俺は、彼女の幸せを願うしか出来ないし、彼女が俺のことを引きずって、不幸せになるより、よほど良いと思う。まあ……たまには、昔の彼氏のことも思い出してくれたら嬉しいけどな」 「見ず知らずの方の為に、命を投げ出した、あなたの行いは尊いと思います。けど、この世界では、もう、それをしないで下さい」 「今まで生きてきた生き方は変えられないから、約束は出来ないけど」と前置きした上で、シンは、私を軽く睨む。「俺のために色仕掛けをしようとしたヤツに、言われたくない」 「……それは……」  今になると納得出来ることがあった。あの時、テシィラ国の国王に身体を触れられたり、抱き寄せられたりしたのが、吐き気を催すほど不愉快だったけれど、シン以外の誰かに触れられたくなかったからだろう。 「もう、ああいうことはしません」 「本当に?」 「……そんなに、私は信用出来ませんか?」 「信用出来ないと言うより……、何をするか解らない」  今まで、言われたことのない評価だ。私が、一体、いつ、そんなことをしたのだろうか。テシィラ国の国王に、言葉は悪いが、色仕掛けをしようとしたことはある。だが、それはただ一度のことだ。 「……とにかく、ルセルジュ。あんたは、自分を大事にしてくれ。あんたが、色仕掛けとかしたら、それは、俺が、凄く嫌なんだ。あんたも……いまさら、俺が、客を取ったら嫌だろう?」  血の気が引いた。彼が、誰か……私の知らない誰かに、身を委ねる。想像しただけで、目眩がしそうだった。 「絶対に、止めて下さい……」 「だから、そういうことだよ」  シンは苦笑してから、私を一度強く抱きしめてくれた。ぽんぽん、と背中を叩かれる。頑張れ、ということなのかも知れない。友愛には満ちているが、性愛には、酷く離れた抱擁だった。
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