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 思案し始めた私に対して、シンは「難しい顔」と言って笑う。「眉間に、縦皺が寄ってる」  眉間に縦皺。思わず、触れてみると確かに、皺が寄っていた痕跡がある。 「ルセルジュは、あんまり、根掘り葉掘り、前の仕事のことを聞かないけど、本当は、聞きたいんじゃないかなって、思ってた」 「なぜ、ですか?」 「聞いてこないから。興味がないやつは適当に聞いて面白い答えが返ってこなかったら、あとは聞いてこない。でも、あんたは、そこは、慎重になってる。最初のころ、下等とか言ってたのも、今はない。だから……汚いものと思って見下されているんだろうな、とは思ってた」  心臓を、冷たいナイフが、貫いていくような、ひどい衝撃を受けた。 「私は、そんなことは……絶対に、ありません」  声が、かすれて、上ずって、みっともない。ただ、シンは、私を困ったものを見るように、見ている。私が、欲しい、視線ではない。どうして、私に、そんなことを、いうのだろう。呼気が、上がる。 「でも……あなたに、興味がないというのではなくて、ただ、あなたから、その話を」  たぶん、聞きたくなかった。目を背けたかった。何でもないことのように言うシンが、本当は、つらい思いをしていたことは、先日、知った。胸が苦しい。黒曜石の瞳が、私を、じっと見ている。しばらく、私が何も言えずに黙り込んでいると、シンの表情が、ふ、と緩んだ。 「あんたは、優しいから、嫌なことを聞きたくないんだと思う」  私の、このよくわからない、感情を、優しい、などという耳障りの良い言葉で、包み込んでしまってよいのだろうか。 「けれど、私は、本当に、あなたを見下したり、侮蔑したり、そういうことは、ないのです」  これをシンに、どう証明すれば良いだろう。そして、シンはなぜ、急にこんなことを言い出したのか。 「さっき、神官を探すっていった時」 「はい」 「あんたの顔が強張ったから。あんたにとっては、見たくないもんだろう。頭で理解していても」  なぜ、私が、シンの過去を見たくない、と確信しているのか。 「ではなぜ、私に見せようとするのですか?」 「そうだなあ……たぶん、必要なことだから」 「はぐらかすのは、やめてください。なぜ……」  なにも言ってくださらないのか。私の言葉を、シンは指一本で、遮った。シンの指が、私の唇に触れたから。それ以上、何も聞くことが出来なくなった。  なぜ、私はシンの過去に触れたくないのか。それを、私は、誰かに相談することが出来なかった。マーレヤに相談すれば良かったのかとも思ったが、なにか、違うような気もする。けれど、私一人で考えていても、頭の中で考えがぐるぐるとめぐるばかりで、答えは出ない。雪山で迷うと、どこを歩いているのかわからず、遭難するという話を聞いたことがあるが、今の私は、まさにその通りで、今、私は何に向かって歩いているのかどう進んでいるのか、まったくわからなかった。  私は、秘蔵していた酒瓶を片手に、シンの居室を尋ねることにした。一つ一つ、わからないことを正直に、明らかにしていくならば、シンに聞くしかないと、私は思ったからだ。けれど、私がシンの居室の前に差し掛かった時、意外な光景を見てしまった。  シンは、誰かと一緒にいた。  親密そうにしている。神官、だが、知らない顔だった。私の周りにいる神官は、限られている。だから、まったく違うところで奉職するものなのだろう。彼らは、私に気づいていない。シンが、少し笑った。何を話しているのか、会話の内容は聞こえてこない。何を、離しているのか。私の知らない交流があるのも、不思議なことではないだろう。けれど、私は知らなかった。どうして良いのか解らずに、立ち尽くす。気軽に、声を掛ければ良いような気もした。シン、どうしましたかと。そしてこの方はどなた? と。そう声を掛ければ良いはずだった。それが、普通のことなのに、私の脚は、地面に縫い付けられてしまったように動かない。  シンに向かいあって話をしているのは、シンよも少し小柄な神官だった。蜂蜜色の髪が、肩の辺りで揺れている。私と違って、ふんわりした巻髪だった。明るくて、可愛らしい。顔は、解らなかったけれど。その、神官が、すこし背伸びした。 「あっ」  思わず声を上げてしまったのと、私の手から、酒瓶が滑り落ちていったのは、同時だった。ややあって、大理石を敷き詰めた廊下に落ちて、酒瓶が、けたたましい音を立てて割れる。甘い、果実の香りが辺り一面に広がった。瓶の欠片が飛んで、私の手を傷つける。そこに、一条、赤い線が走った。血が、滲んだ。けれど、こんな傷は、痛くはなかった。もっと、私は、胸が、痛い。  あの神官は、背伸びをして、シンに口づけをしたのだった。  呆然としている私を、シンと、神官が振り返る。神官は、あどけない顔つきをしていた。まだ、十代の半ばと言った年齢だろう。可愛らしい顔立ちだった。一瞬、脳裏を、ユリの姿がよぎる。シンは、ああいう可愛い顔立ちのものを好むのだろうか。だとしたら、私は、多分、その対極の顔立ちだと思う。  テシィラ国の国王は、私の顔を好んでいるだろう。けれど、シンは、そうではないのだ。 「おいっ、あんた、大丈夫か?」  シンが私に駆け寄ってくる。神官は、青ざめた顔をして、立ち尽くしていた。私は、どうして良いか解らなかったけれど、シンやあの神官の前で、平然としていられる自信がなかった。そして私は、踵をかえすと、そのまま駆けだした。どこへ向かうのか解らなかったけれど、とにかく追ってくるシンを振り切るために、生まれて初めて、全力で走った。
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