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「待てよ!」  追いかけてくるシンと、私の間は次第に距離が詰まってくる。私は、長衣を着ているし、平素こんな風に走ることはない。けれど、いま、シンと顔を合わせたくなかった。先ほどの神官とは何をしていたのだ。なぜ、あんなところで接吻をしていたのか。あの神官を、どう思っているのか。それを、問いただす資格など、私にはひとかけらもないのに、私は、シンを責めそうだった。  居館を抜け出し、庭園を通り抜け、どこまで走るのか、私も解らない。 「ルセルジュっ!」  こんな時ばかり。こんな時ばかり、名前を呼ぶ。普段は、殆ど呼ばないくせに。あんた、と呼ぶことが多いくせに。後ろから迫る声を、振り切るように私は走る。走って走って、息が苦しい。脚がもつれる。それでも、走った。 「ルセルジュっ!」  腕を取られて、引き寄せられた。抱き留められて、私は思わずもがく。なぜ、抱きしめるのか。そう文句を言いたいのに、腕の中は、幸せな感触がして、私は、やがて、押し黙った。 「……あれは、誤解だよ」  誤解とは、なんなのか。私は、顔を上げられなかった。シンの胸に顔を埋めて、黙り込む。口を開けば何を言い出すか解らなかったし、顔は、見せたくなかった。私は、きっと、今、醜い顔をしているだろう。それが解るから、この顔を、シンに見せたくなかった。 「あの神官とは、本当に、なんにもないからな……。あの神官が、一方的に、俺の所を訪ねてくるんだよ。それで、いつも、突っぱねてたんだけど、今日は、……キスまでされたから。俺も、させるつもりはなかったんだよ」  キス、というのが接吻のことだろう。そのことを、私はなにも言うことは出来ない。させるつもりはなかったと言っても、もし、本当は、あの神官とキスがしたかったのだとしても。する、つもりがない口づけは―――不愉快だった。テシィラ国の国王にされたのを思い出して、身震いした。 「それで、俺に用事があって、来てくれた……ということだよな」  用事は、あった。なにも解らないから、確認したかった。けれど、今、その話が出来る自信がない。私は、シンの腕の中で身をよじる。けれど、シンは、離してくれなかった。 「離して」 「逃げるだろ?」  テシィラ国の国王のような、不快感はなかった。もっと、シンの体温を、心音を、感じていたかったけれど、なにも説明出来ない以上、どうしようもなかった。私には、何も、言うことは出来ない。どうしよう。どうすれば良いのか。私には解らない。 「あのさ。今、何を考えてる?」 「なにを……?」  自分でも、よく解らないのに、何故、シンに、何をを伝えることが出来るだろう。 「ルセルジュ」  ちゃんと言いなさい、と子供に諭すような口調で、私の名前を、シンは呼んだ。 「あの神官とは、どういう関係なのかと」 「正直、知らない。最近、つきまとってくるのは知ってる……ただ、俺と、そういう関係になりたいということは、告げられてる」 「そういう関係? 恋人と言うことですか?」 「……いや、もっと……、身体だけの関係」  顔が、熱くなった。シンと、交わりたいと、それだけで良いと言うことだろうか。ふいに、テシィラ国の国王の金色の瞳を思い出した。あの国王は、私に告げたのだった。 『……それであれば、快楽だけをお求めになればよろしい』  そして、自分と同じ所へ堕ちろ、と囁いた。私は、何を言われても、あの男相手には拒むが、シンにならば、どうだろう。同じ言葉を、シンに言われたら、私は、たやすく、そちらに堕ちるだろう。 「ここはさ、神様に祈って、そういうことだけして居られる人ならば、居やすい場所だけど、人間はそれだけじゃないだろう。……だから、自分より劣っているものを、虐めたり、快楽だけ求めたりもする。ここで、恋人を見つけて、愛の証を交わし合う、マーレヤみたいな人も居るけど」 「それで、あなたは、快楽を求めなかった」 「……俺の前職を知ってるやつは、俺を色狂いだと思うヤツも居るんだよ」  シンが、苦笑するのが解った。私は、「そんなことはないでしょう」と反論した。「あなたは私に言った。最初の頃、暗記の暗唱を繰り返して、耐えていたと。あなたが、色狂いなら、そんなことは、する、必要が、なかった!」  言っていて、悔しくなった。シンのことを、まだ、『男娼』という、目で見て、不等に、貶めているものたちが、この世界には、沢山居るのだ。唇を噛みしめる。シンの、服を掴んで耐えていたが、悔しくて、涙が溢れた。 「なんだ、しっかり、あんた、それに気づいたのか」 「気づきます! あなたの、些細な言い回しの一つに、私は、こんな、揺れ動いているのにっ!」  シンは、私の頬を、手で包み込んだ。暖かくて、大きな手だった。シンの顔が、間近に見えた。私は、泣いているはずで、みっともないから顔を見せたくないのに。 「ねぇ、ルセルジュ。なんで?」 「えっ?」 「なんで、俺の言葉の一つ一つに、あんたは、揺れるの?」  シンは―――――――。  ああ、答えをわかっていて、この、質問をして居るのだ。  黒曜石の眼差しは、いつか憧れたような、甘くて、優しい光を写している。 「あなたが、好きだから」  私はためらいなく言った。もっと、ためらうと、思っていた言葉だった。シンは、私の言葉を聞いて、柔らかく微笑む。鼓動が、早くなった。どうしようもないくらい、早い。そのうえ、うるさくて、シンに、聞こえているのではないか。聞こえていたら、どうしよう。恥ずかしい。 「やっと言った」 「いつから、私が、……あなたを好きだと、気づいていたのです」 「あー……、スマホを見て、泣いた時」  それは、私がシンに対する恋心を自覚した瞬間ではないか。恥ずかしい。最初から知られていたのだろう。私は、涙を手で拭おうとしたら、シンが、小さく首を横に振った。それから、私の目元に、この上なく柔らかくて暖かな優しい感触が、ふんわりと訪れた。シンが、私の涙を、唇で吸い取ったのだ、と知ったのは、数瞬遅れたあとだった。
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