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 唇の、優しい感触。  それが、夢のように思えた。 「あ……」 「あんたはさ、簡単なことを、難しく考えすぎるんじゃないか?」  シンが言う。顔は、まだ、近い。鼻先が、触れあいそうだった。 「自分の、気持ちを自覚すると言うことでしたら……、それは、そんなに簡単なことではないと思いますが」 「難しく考えるから、解らなくなるんだろ」  そういうものだろうか、と私は思い。もう一つ、気になって、シンに問いかけた。 「私はあなたが好きですが……、あなたは、どうなんですか?」  シンが、盛大に顔を歪める。なにか、おかしなことを言っただろうか。 「あんた、それ、本気で言ってる?」 「……冗談に聞こえますか?」 「勿論、好きだ。なんで、解らないかな。鈍すぎる……好きじゃなかったら、あんたが色仕掛けをしようとしたのをあんなに怒らない」  顔が、熱かった。 「……あの、それなら、なぜ、あなたは、……お店に居たときのことを、語ろうとしたのですか?」 「いや、そこは、気になるだろう? 俺が、前に付き合っていた恋人のことと、どんな商売だったか。これは、あんたに語っておく必要があるだろう。あなたと、ちゃんと、付き合うなら。勿論、あんたが……俺の元の恋人とかに、嫌な気持ちになるとは思ったけど、あんたには、それが必要だと思って。あんたは、こういうことに慣れていないようだから」  それは、私と向き合って、付き合っていくために、必要なことなのだと、シンが思っていることなのだ。シンが、私に誠実に向き合うことを思ったときに、過去の話をしておく必要があると思ったのだろう。 「だって、さ……あんた、絶対に、そのうち勘違いし始めるから」 「勘違い? 私が?」 「そうそう。まだ、元の恋人に心があるんじゃないかとか、常連客の中に、本当は好きな人がいたんじゃないかとか」  私は返答出来なかった。まさしく、そういうことを、考えるだろう。お見通しなのが、恥ずかしくてたまらない一方で、私は、それを、理解して貰えていると言うことが、嬉しくもあった。 「そういう私は、嫌じゃないんですか?」 「度をこしたら、ちょっと辛いと思うけど……嫉妬の一つもされないよりマシかな」 「そう、なんですね?」  見苦しい嫉妬。うらやましいと思ったこと。そういう、今まで知らなかった感情を、私は持て余しているし、どう付き合って行けば良いのか解らない。ただ、シンは、私の気持ちは否定しないのだと、それだけは、確信出来た。 「そうそう。とりあえず、聞きたいことは全部答えるし、今から、ちょっと、あんたは聞きたくなかったかも知れない話をする」  私は「はい」と、答えた。シンがここへ来て、どんな苦労をしてきたのか、向き合わなければならない。 「じゃ、部屋に行くか」  そう、シンが私を誘ったときだった。ぽつん、と私の頬に、大きな雨粒が当たった。気がつけば、空は、酷く黒くて厚い雲に覆われている。雨降ってくるかも知れない。そう思っているうちに、天から落ちてくる雨粒の量は一気に増えた。 「……これじゃ、戻る間に、濡れるな……」 「少し、雨宿りを。急な雨は、大抵去るのも急です」  私は、庭園の四阿を指さした。急いで駆けていけば、それほど濡れずに済むだろう。 「そうだな、じゃあ、急ぐぞ!」  私たちは四阿へと急いで駆けた。四阿に駆け込んだ瞬間、雨脚が一気に強くなった。まるで、水の(とばり)が張られたようだ。私の居館は見えなかったし、あたりは、雨の音で、何も聞こえない。何かが潜んでいたらどうしようか、と一瞬思った。しかし用心に越したことはないが、誰かが潜んでいるはずもない。 「大丈夫か? 濡れていないか?」  シンはの短い髪が、少しぬれていた。肩の辺りも。それを見て、私は気がついた。さりげなく、私を雨から庇っていたのだ。私は、少しも濡れていなかった。 「ありがとうございます」  申し訳なく思うより、私は、感謝を伝えたかった。シンは、すこしそっぽを向いて「別に、このくらい」と言う。少し、照れているようだった。胸が、くすぐったいような、温かな気持ちになる。ああ。シンと出会ってから、私は、自分の心に『温度』があるのを知った。シンと一緒に居るとき、暖かかったり、柔らかな気持ちになったり、胸が熱くなったり。様々な温度を感じている。今までの私は、そんなことも知らずに生きていた。  四阿に並んで座り、私は、水の帳で隠されているのを良い事に、シンに、抱きついた。シンも、私の肩を抱き返してくれた。 「どの、話からしようかな」 「……では、あなたが、ここに来てから、娼館に入るまでの話を、詳しくお願いします。初対面の時は、事実だけを伝えてくれました。感情も混ぜずに」 「そうだった。……あの時は、神殿が面倒を見てくれるって言うから、とりあえず、三食心配しなくて良いならと思って来たけど……結果、大正解だったな」 「それならば良かったですが」 「まあ、まず、事故ったときの話は少ししたよな。アレは、帰宅ラッシュの駅だった。女の子が、貧血で落ちたんだ。線路に。それで、電車も隣の駅を出発したばかりだった。とっさに、気がついたら、線路に降りてた。そしたら、一緒に、大学生くらいの男の子と、俺と大差ないくらいの年齢のサラリーマンが、降りたんだ。それで、三人で、なんとか、女の子を助けようとしたけど、結果間に合わなかった。  それで、気がついたら、みんな、森の中だったんだ。女の子は、まだ、ぐったりしてて、サラリーマンは怪我をしてた。俺は、無事だったから、ちょっと周りを探ってくるって言い残して、その場を離れたんだ。そうしたら、三人は、黒装束の……騎士っぽい奴らに連れて行かれた。どうも、そいつらは、俺たちがそこに出現するのが解っていたらしい」  その話は、私は初耳だった。 「どこに出現するか、解っていた?」 「えっ? ああ……そう。そうなんだよ。解ってたみたいだ。それで、さらわれたんだ。でも、三人も居るのは解らなかったみたいだ。六百年前のクロノも、一人で来たみたいだったし」  私は、顔をしかめた。  大神官の交代。それを『表向きの儀式』として、神殿では『本当の儀式』が行われる。それが、異世界人の召喚だった。その内容は、私は感知することは出来ない。神殿でも、どんな立場の者が、それを執り行うのかも、私は解らない。ただ、神殿の『どこか』で行われると言うことだけが、報されているだけだ。  けれど、召喚した張本人が、異世界の民がどこに現れるのか解らなければ―――広い大陸中を一人一人捜しあるくしかなくなるだろう。それは、現実的ではない。つまり、神殿で、異世界人を召喚したものたちの中には、確実にテシィラ国に通じている者がいたと言うことだ。私は、目眩がしそうだった。  神殿に、機密情報を横流しした者が居る。そして、それは―――ここ最近のことではなかった。召喚が行われたとき。私が大神官に就任した時点からのものだったのだ。
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