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 シンの部屋で過ごしてから、夜明け前に起き出して、何食わぬ顔をして自分の部屋に戻って身支度を調えた。少しの時間しか眠ることは出来なかったが、それよりも、精神的な充足度が高い。さきほどまで、シンに抱きしめられていた、体温と、彼の鼓動と、彼のすべてを想い出して少し顔が熱くなりつつも、私は気を引き締める。部屋に戻ったのを、誰にも悟られていなければ良いが、マーレヤは気づいているかも知れない。  しばし、手記を書いていたが、夜明けの少し前に、「おはようございます、大神官様」とマーレヤが扉の外から声を掛けてきた。 「今参ります」  私は早朝の勤めの為に部屋を出る。 「おはようございます。よくお休みになりましたか?」 「ええ。それでは参りましょう。なにか、変わったことは?」  このやりとりも、何時ものことだ。 「特にございませんが、朝食後、副神官長様が大神官様のお部屋を伺うと仰っていました」 「スティラが……解りました。何の用事か聞いていますか?」 「いいえ」  そうですか、と言いつつ、朝食の前に祭壇に少し立ち寄ろうと心に決めていた。シンに、私の気持ちとして『愛の証』を贈りたい。一刻も早く、そうしたい。今は、神殿に危険が潜んでいる時期でもあるから、私が『愛の証』を捧げれば、彼の為にもなるはずだった。それは、単なる言い訳だけれど。 「……大神官様は」  私を先導するマーレヤが、振り返りもせずに言う。 「はい?」 「今、神殿は、危機に瀕していると思います。そんなとき、大神官様は、神殿の為ならば、どんなことでもなさるのでしょうか」  マーレヤの表情は読めない。だが、声は、表情がなかった。 「そうですね……その時にならないと、解らないと思いますが」と呟いてから、私は、三十年前のことを思う。神殿が、一つの村を滅ぼした。その理由はわからない。けれど、そういうことがあってはならないと、私は思う。ましてや、それを隠しているようなことはあってはならない。 「最悪の選択をしないために、今、準備をしなければならないと思いますし、最悪の判断がされるのならば、私の名で行われたことを、後世に残すつもりです。私に出来るのは、それだけでしょう。そして、それは、二度と繰り返してはならない愚行を行った者の名として、語り継がれなければなりません」  その未来を選択するとき。私は、多分、シンの手を手放すだろう。この世界でも、私でなくても、彼が、誰か伴侶を見つけて、幸せになることは出来るはずだ。だから、私は、そうならない為の、決断をしなければならない。 「何故ですか」 「私に出来ることなど、その程度でしょう」 「ですが……」 「ですから、そういう未来を選択しない為に、動かなければなりません」  それでも、心の中に、常に、『その選択肢』があることを、刻んでおかなければならない。それが、大神官、という職責を頂く私の、使命だった。 「シン様は……?」 「その時は、彼を神殿から追放します。それで、彼に累が及ぶことはなくなります」 「なんで、そんなに、冷静なんですか?」  マーレヤが、振り返る。その瞳に、涙が浮かんでいた。美しい、菫色の瞳なのに。その瞳に涙は酷く不似合いだった。 「私は、冷静ではありません。出来た人間でもありません、不完全で、何も知らない、世間知らずです。けれど、私に出来ることは、彼に対して、誠実でいることです。そして、私自身に対しても、誠実でいることです」 「だからって……っ!」  ぽろり、と水晶のような涙が、マーレヤのまなじりから落ちた。 「なぜ、泣くんです」 「……大神官様が……、」  そう言ったきり、マーレヤは、唇を真一文字に結んだ。俯いて、私の足下に跪く。そして、そっと、私の手を取ると、指先に口づけた。 「マーレヤ?」 「お(いとま)を頂きます」 「え? 何故です、マーレヤ……?」 「……なぜ、あなたは、そんなに、人を疑わないのです」  回廊に、朝日が差し込んでくる。白い壁も、廊下も、朝焼けの、燃えるような赤に染まっていく。すべてが、燃え落ちていくような彩だった。 「猊下の一番お側にお仕えしたのは私です。なぜ、私を、一分も疑わないのです」  私の後ろで、人の動く気配がした。私の『影』だ。それが動いた気配があると言うことは―――。けれど、私は、どうしても、マーレヤを、疑いたくなかった。マーレヤは、私に、よく仕えてくれた。それは私の心を和ませてくれた。その、マーレヤの心遣いを、疑いたくない。 「シン様に会う前ならば、あなたは、私を、最初に疑ったでしょう。あなたは、恋をして変わった」 「恋をして……愚かになったと?」  マーレヤが顔を上げて、私を見上げた。侮蔑と嘲笑と。そして、苦笑が入り交じったような、複雑な表情の真意を、私は、読み取れない。 「お人好しの世間知らず」  マーレヤが吐き捨てるように言って、たち上がる。 「あなたは……」 「スティラは、もう、調べが済んでいるのでしょう。だから、今日、朝食後に猊下の部屋を訪ねると、私に伝言したんですよ。あなた、シン様の言葉を、ちゃんと、聞いてました?」  どの言葉のことだろう。  頭の中で、シンの言葉を思い返す。どこまで想い出せば良いのか。 「まったく、なんで、私の本名を、シン様がご存じなのか……」  チッ、とマーレヤが舌打ちをした。「だから、あなたに、『マーレヤ』と言われたあの瞬間、心臓が止まるかと思ったんですよ、全部、見透かされてるんじゃないかって」  どういうことだろう。いや、確かに、マーレヤは、私に名乗ったことはない。シンが、マーレヤと呼んでいたから、マーレヤと呼んだのだ。いつだったか。そう、私が、一度シンの前で倒れたとき。  シン。シンタロ。  私は、嫌な符号が、私の頭のなかで、ピタリとはまったのに気がついた。全身が、それを否定したくて、身体が、勝手に震えた。 「なぜ……」  シンは言った。『この国に長音はない』。だから、シンの本当の名前はこの国の人間には、発音しづらい。だから、シンタロではなく、シン。けれど、違う、シンタローと伸ばす音になるのが、シンの本当の名前だ。マーレヤ。この国の人間なら『マレヤ』あるいは『マレッヤ』となるはずだ。  指先が、冷たい。震えが止まらなかった。けれど、私は、聞かなければならなかった。 「あなたが、シンの情報を……あの国王に渡していたのですか」
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