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夏が過ぎ去り、日が徐々に短くなっていくのを体感する初秋。薄く立ち込める霧は草木を潤し、同時にその匂いを空気中に運んでいる。季節の到来を喜ぶ控えめな虫の声にも、彼らの潜む茂みの枯れ草にも、秋が感じられた。
そんなある金曜日の夜、美耶は残業を終えて帰路についていた。頓着をなくした髪はほつれ、化粧崩れはきっと見るに絶えないが、家はもうすぐそこだ。今日こそはドラマを見ながら夜更かしをしよう、と決意した頭が浮かれている。
お風呂に入り、空腹を満たし、ようやく待ちかねた至福の時間がやって来る。手始めにアイスを食べようとして冷凍庫を漁ったが、あるのは冷凍食品ばかり。
美耶は逡巡の後に財布を掴み、玄関へ向かった。すっぴんでも、ヨレヨレの部屋着でも構わないくらい、アイスが食べたい。
馴染みのカップアイスを買い、コンビニから出ると、萌黄色の浴衣を着た女の子が道を駆けて来る。
「危ない!」
ガードレールの隙間から車道へ飛び出す小柄な体を、美耶は咄嗟に制止する。少女が浴衣姿だったのが幸いした。
「きゃっ!」
少女は小さく悲鳴を上げたが、間一髪のところで歩道に留まった。しゃがみ込んで目線を合わせ、美耶は聞く。
「…大丈夫!?け、怪我はない?」
ところが少女は俯いたまま答えない。
美耶は答えを急かす必要もなく、改めて彼女の出で立ちを眺めてみた。歳は七つ八つといった所か。おかっぱの髪が可愛らしく、新緑を彷彿とさせる萌黄の浴衣に、淡黄色の絞り帯を締めている。そして奇妙なことに、背後には背丈の半分ほどの茶色い尻尾が揺れており、頭には小動物のような丸く愛らしい耳がある。くりっとした大きな瞳は愛くるしい垂れ目──既視感を感じ、美耶は気付いた。少女は狸を彷彿とさせるのだ。
「………私の名前は美耶よ。あなたの名前を教えてくれる?」
本来人間の目には、妖の姿は映らない。それが、突然自分の背丈の倍ほどもある人間に呼び止められたのだから、少女が驚くのはごく自然なことのはずなのだ。──美耶は交通事故で亡くなった弟と再開する不思議な体験以来、妖の姿が視えるようになった。
「……せりは」
「せりはちゃんね!……せりはちゃん、ご両親はどこかにいるの?」
「おっとぉと、おっかぁは──死んでしもてん」
せりは、零すようにそう言った。
告げられた言葉に、美耶は全身の毛が逆立つような悪寒を感じる。
「亡くなった、というのは……」
「──人間の畑にな、野菜取りに行こうとしてん。そしたらな……そしたら、な──大っきい音が響いてな、おっとぉとおっかぁがな、倒れてん。もう、起きひんくなってん。目ぇ開けんくなってん」
まくし立てるように言ったが、せりはが涙を見せることはなく、言葉の幼さとは裏腹に、瞳には冴え冴えとした何かが居座っていた。その正体が美耶にはわかる気がした。
(この子もきっと、最後にお別れを言えなかったんだ。だから、両親の死を受け止められていないんだ)
突然の死別は、本当に残酷だ。まだまだずっと共にいると疑わなかった人が、ある日急に、目の前で冷たくなっている。
私からの別れは、届かない。相手からの別れは、聞こえない。
何をしていても、自分の人生から欠け落ちたその人の事ばかり考えてしまって、泣き疲れたはずなのにすぐに溢れてくる涙と、それすらも嫌になって不愛想になる日々。
「そう……辛かった、わね」
他の言葉は無為だと思った。美耶は思わずせりはを抱きしめていた。
小刻みに震えていた彼女は、一度大きくしゃくりあげると、関を切ったように泣き出した。緊張気味に伸びていた尻尾は力なく萎れ、頭上の耳もペタリと折れる。
「……」
だがしかし、この状況は些かまずい。傍目から見た今の美耶は、コンビニ前の歩道に座り込み、一人呟く変人である。
「…………せりはちゃん」
ひとしきり泣いた彼女に声をかければ、上目遣いに美耶を見上げてくれた。
「ふふ、初めて目が合ったね」
そんな些細なことがとても嬉しくて、思わず口にしてしまう。きょとん、とした表情を返されて、慌てて自分の中で話を元に戻す。
「せりはちゃん、行くところがないなら、ひとまず私の家に……」
ヒュー──
ドーン……
「……え?」
突然、背後から爆音が響く。
おかしい。この秋口に花火大会など珍しいし、地元で暮らしていてそれに気付けないはずがない。
「──花火が始まっちゃう!」
突然せりはが言い、美耶の腕を引っ張って再び車道へ足を踏み出そうとした。
「ちょっ!ちょっと待って!」
そんな自殺行為を見守るわけにも、命運を共にするわけにもいかず、横断歩道にせりはを導く。その間も、花火の爆音が鼓膜を揺らすのだが、いかんせん肝心の花火を見つけることが出来ない。
だが、せりはに着いていくにつれ、花火の音が大きくなっていることだけは確かだった。
住宅街に設置された街灯は多くない。美耶には心許ない明かりだったが、せりははきっと夜目が聞くのだろう、慣れ親しんだ通学路を歩くかのように進んでいく。
やがて辿り着いたのは、地域の小学校だった。不思議なことに校門が開いており、せりはは美耶の手を引いて迷わず入っていく。どうにでもなれ、と腹を括って、美耶もその後に続いた。
――そこで美耶は、世にも不思議な光景を見た。
人とは思えぬ様相をした、そう妖達が、校庭にひしめきあっているのである。
ついと横を滑っていくのは、妖狐の面を付けた背の高い着物姿。足元に風を感じて視線を落とせば、鎌を構えた小さな姿が。斬られるかと身構えるが、目が合った途端、彼らは甲高い笑い声を上げて走り去っていった。
ヒュー──
ドーン……
妖達の多くは空を見上げていた。
花火の弾ける音。しかし花火の色彩は何処にも見えない。
――そうか。私に見えるのは「妖だけ」なんだ。
妙に納得して、美耶は見えない花火を想像した。次に気になるのは、この摩訶不思議な空間の正体である。
「せりはちゃん?……ここは一体」
「【夜祭】いうねん。この一年間の間に亡くなった家族を、ここでお見送りするん。うちはじいじのお見送りに一度来たきりやったけど、今年はおっとぉとおっかぁをお見送りしに来てん」
せりはと二人で、校庭の一角にある花壇の縁に腰掛ける。リリリ、と乾いた虫の声がすぐ近くで鳴る。声は聞こえるのに、姿は見つけられない──まるで今の花火だ。
きつくきつく美耶の手を握って、せりはは空を見上げていた。きっと美耶には見えない花火を見ているのだろう。
「――なぁ、次、くる」
せりはの掠れた声が美耶の耳に響いた。美耶はその手を握り返す。
ヒュー──……
花火がスピードを持って空へ昇っていく音がする。晴れた秋の夜空には、下弦の月がそっと浮かんでいるだけ。美耶がどんなに目を凝らしても、黒いキャンパスには変化が見られない。そんな空を凝視するのにも飽き、せりはが泣いているかもしれない、とそっとその横顔を伺った美耶は息を飲んだ。
ドーン…………
せりはの瞳に映った、浅緑色の花火。見開かれた黒目に映る花火が、美耶にも見えたのだ。そしてその花火が広がりきらないうちに、二つ目が。
ドーン…………
桃色の花火が、浅緑の花火に寄り添うようにして咲く。二色は合わさってせりはの瞳を埋め尽くしていく。限界まで花開き、重力に従って地面へ垂れる花火。それに合わせてせりはの瞳から零れ落ちた涙も、その色に染まっていた。
「――――」
ヒュー──
ドーン……
せりはが空に向かって呟いた言葉は、次の花火が散る音にかき消されて、美耶には聞こえなかった。
その後も花火は打ちあがり続け、せりははそれをぼんやりと眺めていた。その様子に美耶も思い出されることがあって、隣に並んで祭りの様子を眺める。
「……そこにおるんは、せりはちゃんやない?」
ふと、目の前にせりはと同じくまるい耳を持った妖が姿を現した。
「!きぬさん…!!」
せりはは駆け寄った勢いのまま、きぬと呼んだ女性に抱きつく。親類なのだろう。嬉しいような寂しいような思いを抱えながら、美耶はその様子を見守った。
その後家までどう帰ったのか、美耶は全く記憶が無かった。気付いた時には、玄関の扉を後ろ手に閉めて呆然と立ち尽くしていたのだ。
ふと、美耶は自分の持つレジ袋の冷たい感触に気付いて我に返った。
「……アイスのこと、忘れてた」
緩慢な動作で靴を脱ぎ家に上がると、食卓でアイスを取り出す。
開封せずとも、カップを濡らす結露と、持っただけで凹むカップの様子に察しをつける。
「……溶けても味は一緒!お腹に入れば全部同じ!」
残念な気持ちを吹き飛ばすようにそう言い、レジ袋を片付けようとして、美耶は袋の底に落ちている白い花に気付いた。白い火花のようなその花の名を、美耶は偶然にも知っていた。
「芹葉……」
夏の野山に咲く、真っ白な小柄の花だ。
暫く悩んで、美耶はその花をそっと窓辺の金魚鉢に浮かべた。軽い花は水面に小さな波紋を広げ、左右に揺蕩った末に、鉢の隅っこに落ちついた。眠っていた2匹の金魚は変化した水の気配に身じろぎをしたが、目を覚ますことはなかった。
完
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