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その、犬のような
「あ、危ないっ!」
急ブレーキをかける。とてつもなく大きい音が響いて、何か当たった感触がした。
あれは、おそらく、ワンちゃんだった。
私は、ハンドルを固く握りしめたまま動けなかった。現実から目を逸らしたかった。信じたくなかった。
私が、ワンちゃんを轢いてしまうなんて。
覚悟を決めて、震える足で車を降りる。目を細めながら、その無惨な光景を細く受け入れようと、くだらない抵抗をする。一歩、二歩と進んで、車の前に来た。
でも、そこには、何もいなかった。
そこに唯一残っていたのは、赤茶色の、液体のようなものだけだった。血のような何かが、アスファルトに広がっている。私は、茫然自失のまま車に戻った。とりあえず、助かったということで、いいのだろうか。
*
私は現在、散歩代行サービス「プリリアント」というところで働いている。仕事内容は単純明快。ワンちゃんの散歩を、忙しい飼い主さんの代わりに行う。それだけである。
夫を玄関で見送り、洗濯物を干し、慣れた動きでオフィスへ向かう。徒歩五分の体に優しい距離。朝の光を浴びつつ、歩いていく。
社長の笠原さんに、同い年の三島さん。
少数の、いつもの顔ぶれ。
本格的な会社というよりも、いちサービスという感じなので、主婦さんしかいない。だから居心地は良かった。
でも、あの人はいないようだった。
「山田さんから連絡ってきました?」
そう私が聞くと、重い空気がオフィス全体に流れた。軽く息を吐いた社長が「実はね、遠藤さん」とパソコンの画面をゆっくりと見せてきた。腰を曲げて、覗き込む。そこに映っていたのは、山田さんからのメールだった。
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件名:申し訳ございません
突然のことで申し訳ないのですが、本日限りでプリリアントの方を辞めさせていただきます。あまりに身勝手な私の行動をお許しください。
最後に、もしまた神保さんのお宅から依頼があった際は、断ることを勧めます。
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「山田さん、やめちゃったんですか…」
私の三つ上で、明るくて、誰にでも優しかった山田さん。きっと、ここの誰よりも犬が好きだった。特に好きだったのは、シーズー。
最後に行った神保さんのお宅の依頼に行ったきり、音信不通になっていたけど、こんな終わり方だなんて思っていなかった。
「やっぱり、神保さんのお宅で何かあったんでしょうか」
三島さんが、首をかしげながら聞く。あの山田さんがこんなことをするなんて、やっぱり普通は信じられない。「たしかに、何か起きたと考えるのが妥当ですよね」と私も付け足した。
「神保さんに電話してみましょうか」
社長は、メールの受信ボックスを開いて、素早く神保さんからのメールを見つけた。
「では、かけます」
定番の電子音。音は鳴り続ける。
"現在、電話に出られません。留守番電話..."
「出ませんね。とりあえず、今日の依頼に移りましょう。タイミングがあれば、また電話しておきます」
私と三島さんは、散歩セット一式が入ったバッグを持ち、オフィスを出た。外はよく晴れていて、気持ちが良かった。
「遠藤さん。ちょっと聞いて欲しいんだけど」
車へ乗り込む直前、神妙な面持ちの三島さんが切り出してきた。少しの緊張感が走る。
「こないだ、犬を轢いちゃったかもしれないことがあって。ごめんね、変な言い方で」
「待って。私もある」
あまりにもピンときたその表現に、思わず私も共感していた。数日前の、あの不思議で奇妙な出来事が、鮮明に思い出される。
「えっ、本当に?」
「私も、犬を轢いちゃったかもしれないことがあったの。犬のようなものが見えて、確実に感触はあったんだけど、降りてみたら何もなかったの」
「そう、そうなの。あるのは謎の液体だけで」
三島さんと同じ経験を共有したことで、若干だけど、気持ちを整理することができた。でも、解決自体はしていない。結局あの出来事は、謎のままだ。
とりあえず行きましょうか、とそれぞれの車に乗り込む。まずは仕事だ。エンジンをかけ、車が走り出す。ワンちゃんを轢かないように。
◎◎◎
「ただいま戻りました」
依頼を終え、オフィスに戻る。三島さんはすでに終わっていたようで、ホットコーヒーをすすっていた。穏やかな空気だ。
「神保さんに、またかけてみるわ」
仕事が一旦落ち着いた社長の提案に、私たちも賛成した。山田さんのことは、ずっと気になっている。
いつもの電子音が流れる。また長引いていた。皆が、また出ないか、と思った瞬間だった。
「もしもし」
神保さんが、出た。
おそるおそる、社長が返事をする。
「神保さんでしょうか。わたくし、散歩代行サービス・プリリアントの笠原というのですが」
「はい。利用させていただきましたよ」
「その節はありがとうございます。それで前回依頼の方で伺わせていただいた、山田という、うちのものについてなのですが」
「あの人は犬を轢きました」
「はい?」
「あの人は犬を轢きました」
「あの、何を」
「依頼をお願いしてもいいでしょうか」
「えっと、その」
「明日の正午。次は遠藤さんでお願いします」
"ツー,ツー"
虚しい電子音が鳴り響く。あまりに強烈なその電話は、オフィスに大きな黒渦を生んでいた。なにより私は、指名されてしまった。
「今の電話は…」
何の理解も追いついていない笠原さんに、少しだけ理解できていたかもしれない私と三島さんとで、情報を共有した。
突然辞めた山田さん。
あのメール。
私と三島さんが経験した、消えた犬の話。
神保さんとの電話。
犬を轢きましたという発言。
「つまり、犬を轢いてしまったあなたたち二人が次の標的、ということなのかしら」
「そう考えられます。姿を消した謎の犬の飼い主が、神保さんだった、ということなのかもしれません」
色んな線を考えた結果、これが一番、筋が通っているような気がしていた。というか、それくらいしか思いつかなかった。
「遠藤さん。神保さんの家、行くの?」
不安そうに聞いてくる三島さん。次は自分が標的かもしれないと、ただ運良く後回しにされただけだと、さっきから震えている。
「無理はしないで。断ることも可能よ」
「大丈夫です。私、行きます」
社長にも断りを入れた。私はずっと、山田さんを追い込んだであろう神保さんのことが憎かった。あんなに素敵に笑う山田さんが、あんなに犬が好きだった山田さんが、なんで。どうしても許せなかった。
「山田さんのためにも、私が確認します」
言い聞かせるように、口に出した。目を瞑ると、轢いた感触が蘇る。歯を食いしばって、目を開く。大丈夫。どうせ、大したことはない。
◎◎◎
散歩セット一式が入ったバッグを握りしめる。私の足は、一歩一歩、神保さん宅へと近づいている。徐々に徐々に、覚悟を決めていく。徒歩圏内というとこに感謝しながら、足を進める。
そうして、神保さん宅に到着した。息を整えて、玄関前に移動する。当然のように震えている指で、チャイムを押す。大きく、響いた。
すると、すぐに扉が開いた。
「遠藤さん。今日はよろしくお願いします」
礼儀の正しい挨拶。きっちりと分けられた前髪。綺麗に着こなされているスーツ。爽やかな笑顔。ほのかに香るミントの匂い。
入ってくる情報の全てが、私の描いていた神保さんを裏返していく。整理が間に合わない。
「自分はこれから仕事がありまして、外出させていただきます。こちら家の鍵と、うちのマキちゃんの好物です」
私は、綺麗な革のケースに包まれた家の鍵と「Best food」と書かれたドッグフードの袋を受け取った。何も言葉は出てこない。
「それではお願いします」
神保さんは、あっという間に去っていった。スムーズで滞りのない動きに、私は何もできなかった。とりあえず、散歩に行こう。そう決めて、比較的落ち着いていた心臓と共に、リビングへ入る。
すると、リビングの端に、犬のようなものが見えた。でも、なぜか私は、犬だと断定できなかった。犬のような。そう思ってしまった。
きっとあれがマキちゃんだ。それでおそらく、チワワだ。
「マキちゃん」
呼びかけながら、近づいていく。
でも、一向に、マキちゃんは動かない。
違和感は、次第に膨らんでいく。
「マキちゃん」
やっぱり動くことはない。ピンク色の可愛い服を着ている。その隙間から見える、きっちりと生えた毛並みは、微動だにせず固まっている。
「マキちゃ…ん」
近くに来て、すぐにわかった。
「嘘…」
マキちゃんは、死んでいる。
犬の持つ、あの温もりがどこにもなかった。
生命の鼓動を、感じられない。
私は、おそるそる、背中を向けているマキちゃんの顔を覗き込んだ。腰を曲げ、膝をつく。
「ひぁっ!あっ…」
その衝撃に、私は思い切り背中から倒れこんでしまった。じりじりと痛みが広がる。
マキちゃんの顔は、肉片が繋ぎ合わせられているかのように、ツギハギになっていた。その継ぎ目は赤黒く滲んでいて、少しでも触ったら、こぼれ落ち、取れてしまいそうだった。
あまりの光景に、視界がぼやけていく。そうやって朦朧としている中、私はあるものを見つけた。
マキちゃんの足に、ミニカーが付いている。
訳が分からない。やっぱり、神保さんはおかしかった。山田さんはきっと、この光景を見たんだ。見て、おかしくなった。間違いない。ああ、危ない。このままでは、私もおかしくなってしまう。心臓に手を当てて、必死に呼吸を落ち着かせる。はあ、はあ。まだ治らない。でも、こうすることしかできなかった。
「あなたもマキちゃんを轢いた」
「いやあっ!」
突然聞こえた神保さんの声。顔を上げると、そこには清潔感のある神保さんが立っていた。
「山田さんもあなたも、マキちゃんを轢いた」
「い、いやあっ、はっ、はっ」
「僕が何回も戻しているというのに」
体中を、恐怖が走り抜ける。神保さんのその「戻す」という発言で、神経が凍りそうになった。この人は、きっと、何かがズレている。
「山田さんにマキちゃんが轢かれた後、僕はすぐにマキちゃんの体を持ち帰りました。それで、血だらけでぐちゃぐちゃのカケラを、もう一度、くっつけてみたんですよ」
神保さんの目は、黒い。どこまでも黒い。この現実世界を見ていない。自分を包み込んでくれる世界だけを、無我夢中に見ている。
「そうしたら、戻った。犬のようになった」
「ずっと何を言っているの」
「遠藤さん。あなたは、犬かどうかをどこで判断していますか。考えたことないでしょ」
神保さんの言う通り、考えたことがなかった。だって、犬は犬だ。見たら分かる。
「犬のようであるか、ですよ」
神保さんはぐっと、私に近づいてきた。場違いなミントの匂いが鼻を刺して、気が狂いそうになる。
「もし、目の前に見たことのない新種の生物が現れたとします。それが犬のようであったら、犬の一種だと思いますよね。人間の動物に対する感覚なんて、単純なんですよ。その動物のようであるか、でしかないんです。それに気付いた時は、嬉しかった。だって、マキちゃんを何回だって戻せるってことだから」
その現実を見ない神保さんの顔つきに、私は、恐怖ではない、そう、苛立ちがふつふつと湧き上がってきていた。私も知らない、初めての血の巡りだった。
「マキちゃんは死んだんですよ!」
張り詰めた部屋に穴を開けるような、私の甲高い大声が響き渡る。前を向くと、神保さんの左口角が、ピクピクと動いていた。
「死んでない…違う…死んでない…」
すると突然、神保さんはマキちゃんを蹴り飛ばした。無理やりくっつけられていたであろう肉片が、四方に飛び散る。赤黒く腐っている血が、部屋を汚していく。
「こうやって、バラバラになっても、」
神保さんは部屋に飛び散ったマキちゃんのカケラを集めて、また、くっつけ直している。テープでぐるぐる巻きにして、ピンク色の服の中へ無理やり押し込んで、かたちにしている。
「ほら、戻るんだよ」
つぎはぎで、今にも崩れ落ちそうなマキちゃんが、そこには完成していた。
「見ろよ、この足。ミニカーだよ。このミニカーをつければ、マキちゃんは歩くことだってできるんだ。散歩にだって連れてってやれる」
神保さんは、必死の形相でマキちゃんを動かしている。ミニカーの情けない車輪の音が小さく響いて、マキちゃんはカケラをこぼしながら、部屋の中を進んでいく。
きっと私と三島さんは、このミニカーをつけた、つぎはぎのマキちゃんを轢いた。それで、飼い主である神保さんは、すぐにそれを回収した。私たちに気づかれないほど、早く。
だってそうしないと、マキちゃんが死んだという事実を、他人に判断されてしまうから。客観的な事実が生まれてしまう。神保さんはただ、自分の主観だけで判断できるようにしていたかった。
マキちゃんは死んでなんかいないと、自分の呆れた主観だけを頼りにするために。
私はその光景を冷静に見ながら、呼吸を整えていた。この人はただ、受け入れることができてない。ただ、それが大きくひどい形で広がってしまっただけなんだと。
「神保さん!」
私の声で、神保さんが止まった。その弱々しい背中へと、確実に、私は言い放った。
「生き物はいつか死ぬんです。どんなに愛おしくても、どんなに離れたくなくても、生き物は死にます。それが、命を持って生まれてきた宿命なんです。その覚悟のない人間に、生き物を飼う資格なんてありません。神保さん。私は何回でも言いますよ」
その神保さんの背中に、私は言い放った。
「マキちゃんは死にました」
「や、やめろ」
「マキちゃんは死にました」
「やめろ!」
「マキちゃんは死にました」
「うわあああ!!」
神保さんは、その犬のようでしかないマキちゃんを、強く抱きしめている。顔に体に、血が汁がついて、それでも、離すことはない。
私は、そっと、神保さんに近寄った。
それで、優しく、声をかける。
「マキちゃんは死にました。それで、今はきっと、あの世で神保さんのことを見ています。愛された命は、絶対に、消えたりなんかしません。私たちの知らないどこかで、必ず見守ってくれてます。私には、分かるんです」
数年前に、病気で亡くなってしまった、うちのサンダーの顔が浮かぶ。いつもシッポを激しく振って、私の顔を見るなり、あちこちを走り回っていたサンダー。
私は数ヶ月間、立ち直ることができなかった。神保さんと同じで、現実を見なかった。
そんな私を救ってくれたのが、散歩代行サービス「プリリアント」だった。リハビリがてら、私は徐々に犬への触れ合いを増やしていこうと、この仕事を始めた。仕事だと思えば少しは楽に触れ合えたし、サンダーのことも、受け入れることができるようになった。
だから神保さんは、数年前の私だ。
「そんなことなんかしなくたって、マキちゃんはいつだって、神保さんを見ていますよ」
泣きじゃくる神保さんの背中を、ゆっくりと撫でる。何かに似ている、と思った。それですぐに分かった。犬に似ていた。犬の持つ、どうしようもなく愛おしい、あの温もり。
私は背中を何度もさすりながら、サンダーの激しい尻尾を思い浮かべていた。右に左に、揺れては戻る。そうやって、死を乗り越えていく。簡単にはいかない。間違えて、苦しんで、それでもいつかは乗り越えていく。いつの時代だって、それだけは、ずっと変わらない。
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