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可憐な小鳥たちが囀っているかのようなお喋りと笑い声。
一文字も進んでいない文庫本のページから目を上げ、ちろりと横目で盗み見る先、友達と話している彼女がいた。
「ええ。可愛い犬を飼い始めましたの」
花が綻ぶような笑顔で彼女が言う。彼女が言うのだから、きっところころとした子犬なのだろう。
「でも前に、大型犬を飼ってらっしゃいませんでしたかしら?」
「いましたわ。だけどいなくなってしまって……」
長い睫毛がふっくらとした頬に影を落とした。「いなくなった」とは言っているけれど、きっと亡くなったんだろう。その悲しみを癒す為に、今度は小型犬を。
彼女の、白く長い指に撫でられる子犬が羨ましい。
「今度の子は少しやんちゃで……。たまに反抗してくるんですの。それをちゃんと躾けるのが大変で」
きっと彼女はきつい言葉などは使わないだろう。優しく、諭すように怒るのだ。それでも言うことをきかない時は、「もうっ」と愛らしく頬を膨らませながら、蚊が血を吸う為に肌にとまるかのように静かに叩くのだろう。
緑の芝生の上に座る彼女と、そんな彼女の周りを走り回る子犬。
想像し、心がほっこりすると同時苛立ちを覚えた。
子犬が羨ましい。どれだけじゃれついても、どれだけ我儘な振る舞いをしても彼女に許され愛される。
ああ、彼女の犬になりたい。頭を撫でられ抱き締められたい。
「あら」
そんな声が聞こえてきたと思ったら、ばちりと目が合った。
黒真珠を埋め込んだかのように深く静かで美しい瞳。そこに驚き顔の僕が映っている。
「何か御用でしょうか」
どうやら見過ぎてしまっていたようだ。ああでも今僕は歓喜に包まれている! 声を掛ける事も躊躇われていた美しい彼女に見詰められ、あまつさえ話し掛けられているのだから!
でもここで子犬のように彼女に飛び付いたとしたならば、人間である僕はあっという間に振り払われて変質者扱いだろう。
僕は喜色をぐっと体の奥底に押し込め、「いいえ」と首を振った。すると彼女の目が僕の手元――文庫本へと向き、
「ごめんなさい」
さっきまでの小鳥の囀りはどこへやら、心底申し訳なさそうな謝罪。
「私たちがうるさくしていたので集中出来なかったのですね」
「本当に申し訳ございません。新しい犬が実に可愛らしくて……ああ」
彼女の目が柔らかく細まる。そうして腰を上げ、微風に髪とスカートを揺らし歩み寄ってきた。
「貴方も子犬の目をしてる」
僕の耳に唇を寄せ、妖精の羽音のように囁く。
弾かれたように彼女を見れば、そこには初めて見る妖婦の顔があった。
「お待ちしておりますわ」
彼女はそう言って艶然と笑った。
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