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私は当所もなく街を彷徨う。折角だからクレープでも食べて、カラオケに行って、終電で帰ろう。着信のうるさい携帯の電源を切り、バッグの奥底にしまい込んで……(ああ、なんてこった)バックを車の中に置いて来てしまった。財布も無い。さよなら私のクレープ。絶望的な気持ちで項垂れる私の耳に、それは聞こえて来た。
“おいで”
男か女か大人か子供かも分からない、不思議な声。きょろきょろ辺りを見回すも、雑踏は淀みなかった。私以外誰もその声に気付いていない様子である。
“おいで、こっちだ”
その声が頭の中に響き渡ると、私の意識は霞がかった。置きざりの体は操り人形の如く勝手に歩き、薄暗い路地裏に吸い込まれていく。
“……時は満ちた”
声が言った。
――我に返ったのは、ゴミ箱を蹴とばしてしまった時。生ごみの腐臭で目が醒めた。人気のない路地裏に、私は一人で立っている。慌てて後ろを振り返ると、どの位歩いて来たのか、街灯りは頼りない細い糸になっていた。前に進んだ方が早そうで、私は早足でそこを目指す。建物の間を抜け出た私は、あれ? と思った。今は昼だっただろうか?
(空が、白い)
石膏で塗り固められた様にのっぺり白い。空を囲う看板の群れは青、緑……寒色だらけで、文字は黒く沈んでいた。道行く人々の多くは老人に見間違う白髪で、肌は黒檀の色。何故か世界の色がレントゲン写真の様に反転している。水色の服を着た黒髭サンタクロース像が不気味な笑みを浮かべていた。
私は自分の目が変になったのかと思い目を擦ろうとする。しかしその手は見慣れた肌色だ。目はおかしくなっていない。おかしくなったのは、私以外の全てだ。
ピタリ。往来の一人が足を止めて私の方を見た。黒い孔に沈んだ白がギョロリと私を見ている。すると周囲も連動して、一人、また一人と立ち止まり私を見た。彼らにとって異質な私に気付いてしまったのだろう。……何となく察しているが、これは恐らくオカルトの類だ。
(こ、殺される!)
キャーでもウワーでもなく喉からヒュゴッと変な音が出た。
反転人間達はまるで空腹のゾンビで、私という生餌に群がってくる。私は逃げようとして、放置自転車に躓き派手に転んだ。全身を打ち付け死ぬ程痛かったが、きっと死はこんな程度ではすまない。迫り来る黒い手に、私は目を瞑った。「ギャアアア」……自分の断末魔の悍ましさに絶望する。しかしそれは私の声ではなかった。
目を開けると、まず初めに白色の袴。ゆるゆる視線を上げれば、腰に差した鞘。水色の羽織には髑髏の刺繍。白銀の髪を無造作に束ねた男が、私を後ろに庇い立ち、刀でゾンビを薙ぎ払ったところに見えた。地面に転がるゾンビの体は青い血に濡れている。
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