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犬は、ワンと鳴く。
――らしい
「それがどうしたっていうんだよ、って言いたい顔を、きみはしてる、のだよね」と僕は言った。
「わざわざしてるつもりは、ないよ」と相手はこたえた。
「そんな顔に、でも、見えるよ。見えて当たり前だろう。だって、きみは犬じゃないか。犬そのものじゃないか。犬そのもののきみが、ワンと鳴く、それがどうしたって思ったって不思議はないだろう」
すると、そこで、相手の犬はまたワンと鳴いた。
僕は再びツッコミを入れた。
「ほら、きみは今、やっぱりワンと鳴いた。やっぱり犬そのものである証拠だ」
「まあ、そう言われりゃそうかもしれないが」
犬は、少し寂しそうな顔をして、更に言った。
「でもなぁ、自分ってやつはコレでも、ワンと鳴く、じゃあなくって、ワンと吠えてるってつもりでいるんだがなぁ」
長くて、ぼってりと厚みのある、ピンク色のレアステーキの端切れみたいな舌をだらんと口から垂らすようにして、犬は残念そうにも言ったのだった。
「吠えるかー。そうか。それって、きみの犬としての誇りってものなのかもしれないのだね」
僕が判ったようなことを言ってやると、犬は一転嬉しそうに、巻き毛の束のしっぽをフリフリしたあと、ふっと体を胴体から曲げるようにして、横顔をこちらにと向け、首の辺りを僕に見せた。
そこには、縦長の傷の跡があり、ケロイド状に見えるそこだけは、他の体表の他の部分を覆う栗色の毛ってものが生えそろっていない。
ずいぶん前のことだが、犬が、体が倍ほどもありそうな二匹の犬にからまれているのに遭遇し、僕は決死の思いで、その猛犬どもを追い払ってやった。傷跡はその時のものだった。そのことを、犬は今でも感謝していて、あんたにはアタマ上がんないとこあるからなー、なんて時々本気の顔で言ったりする。
「ま、今日の議論はこの辺でやめておこうか。あんたの勝ちってことで、こっちはイイよ」
犬は、レアステーキの端切れみたいな舌を口からもっと垂らして、笑い出すような顔で言った。
あんたの勝ち、か。ヘンな譲り方だと思ったが、僕は、そうかいと笑った。
そうすると、犬は、ワンと一つ鳴きもしないで、いや、吠えもしないで、姿を消した。
それから、しばらくの時が過ぎた――とわざわざ言っては全く笑いが来る、それほどに、ずいぶんな時間が流れた。
僕は、小洒落たスタンドバーの経営者となっていた。
犬が姿を消した頃、高校生だった僕は、大学卒業後、会社勤めをしたが性に合わず、数年で辞め、バーテンダーを志した。一浪時代に、トム・クルーズ主演の『カクテル』という映画を見て以来のそれは夢のようなものだったのかもしれない。映画の中で、お洒落なカクテル作りのためシェイカーを振るトムは、小粋で素敵な青年に見えた。
バーテンダースクールに通い、それからアルバイト待遇で、有名ホテルのバーに勤めたりなどしながら、、僕のバーテンダーへの道は少しずつ地歩を固められて行った。
小さいながらも1軒の店を持つ、それはたいへんなことであるが、資金面に関しては、赤ん坊時代から僕をかわいがってくれてやまなかった祖父が、僕名義での遺産のオカネを残してくれていたのに加えて、両親から借金をした分を合わせると何とか間に合った。
都心の表通りから少し距離のある場所にある雑居ビルの地階に、僕のこじんまりとした店はオープンした。
開店して3年になるが、常連客も程ほど付いて、地道ながらまずまずの繁盛ぶりを見せていた。
……ある晩、そろそろ店仕舞いをしようかなと考えていると、入り口のドアが開いた。
スミマセン、もうカンバンでして、とお決まりの言葉で謝ろうとするのを制して、お客らしき人物は、お久しぶりです、と頭を下げたかとおもうと、ニコリと笑って、
「突然ですが、わたしは犬です」と二度目の頭を下げた。
「犬さん、ですか?」
事態が掴めず、とりあえず、訊き返した僕に、
「はい、わたしは犬です」とその人物は繰り返した。
イヌという名字のヒトが、知り合いにいただろうかと思い返す一瞬にも、そのヒトは、ワンと鳴いた。
鳴いて、「わたしは今、ワンと吠えました」とそのヒトは言った。
あっと僕の脳内の何処かが光った。
それを見透かしたか、
「そうです。わたしは今、ワンと鳴いたのではなく、ワンと吠えたのです」
とその人物は言って、笑う。
「もしかしたら、あの、あの犬さんですか?」
「そうです」
「でも、どこから拝見しても、あなたはにんげんですよね。にんげんそのものに見えますよね」
それはそうかもしれませんが、と犬と名乗る人物は一つ息を溜める感じになって、プイッとソッポを向くような素振りをして、横顔をこちらに突き出し、首の辺りを、ハイッという感じに見せつけた。
「ほら、これ。思い出していただけますか?」
そこには、ケロイド状のひとすじの縦長の傷跡があった。
「これはあなたのおかげで命拾いをさせてもらった時の証拠の傷です。猛犬二匹に襲われ、死ぬか生きるかの思いをしていたところを、あなたが救ってくださった。あなたが追っ払ってくださらなければ、わたしはどうなっていたか。今頃、こうして、恩義あるあなたと再会することも叶わなかったわけです」
そう言われても、まだ事態が呑み込めず、ぼんやりしているしかない僕だったが、犬と名乗る人物は、そんな僕を見て、今一度ワンと鳴き、
「いえ、わたしは今、やっぱりワンと鳴いたのではなく、吠えたのです」とまたも言った。
僕の脳内が、再び隅から隅まで光った。
ああ、この犬と名乗る人物は、あのワンと鳴いて吠える犬そのものに違いないのだと理解するしかなかった。
「わかってもらえたみたいだね」
その人物の口調もくだけたものとなり、僕達はあらためて顔を見合わせ、ニコッと微笑み合った。
「ちなみに、わたしの名前は犬田です。シンプルな命名なのが気に入っています」
犬田と名乗る〝犬〟はそうも言って、今一度笑った。
それから、毎晩のように、犬田はバーに通ってきた。
にんげんそのものの犬田だが、あのぅ、自分ってヤツは臭ったりはしませんから、と自分の犬的な体臭を気にして卑下するみたいなことを不意にささやくように言ったりもするので、僕は笑って、そのようなことはない、きみは、ふんわり仕上げの柔軟剤のにおいの利いた洗い立てのハンカチのような匂いがするよ、と褒めてやった。
すると、あーよかったと犬田は顔を綻ばせ、でも洗い立ては褒め過ぎですよね、と照れ、舌先を伸ばして、ぺろりと上唇を舐めた。
その舌というものは、やっぱりだらりと長く見え、レアステーキみたいなピンク色ともきらめいて、僕の目に映った。
毎晩毎晩、犬田はやって来る。
酒は強くも弱くもなく、僕が差し出すカクテルを、キレイですねえと賞賛し、ゴクリを飲むと、カウンターに突っ伏して、眠った振りなどして見せるのもご愛嬌。だが、そろそろ起きないと、もう閉店だよと起こしてやると、自分は眠ったりなどしていない、眠った振りをしながら、あなたのお仕事ぶりを拝見していたのですと神妙そうにも聞こえる声で言ったりした。
犬田は毎晩毎晩やって来て、カクテルを飲む。お代もきちんと払う。
何をやって暮らしているのか、とある晩、僕は訊いた。
商売柄、お客さんがどんな仕事をしているのかと大雑把な見当が付くようなところがあるのだが、犬田に関しては、それが判らない。
「何をって……」
犬田は困ったような顔をして、黙った。
「だから、どうやって生活しているのかってことだよ」
犬田は、ああ、とタメ息を付いて、
「会社勤めをしていましたが、クビになっちゃいましてねえ」と乾いた声でこたえた。
「ですから、こちらでの飲み代もそろそろ無くなろうかというわけでして」
さびしい、それはとってもとってもさびしいことなのですよと犬田は俯きかげんになった。そして、ひとすじふたすじと涙さえ流して泣き、それから、ワンと鳴いた。
「――きみは今、ワンと鳴いたね、吠えずにワンと鳴いて、そして泣いたんだね」
思わずの調子で言ってやらずにいられなかった僕に、
「はい、鳴いて、泣いたのです」と犬田はもっと寂しそうな顔をしてこたえた。
その日から、僕は、犬田を我が店に雇った。
犬田の仕事ぶりは、なかなかのものだった。
これこれをやってほしいと言いつけるより先、僕の呼吸を飲み込んで、あれこれをやりおおおせる、そんな器用さがあった。
グラス磨きや簡単なおつまみの下ごしらえなども達者に片付ける。
きみは働き者だなぁと褒めてやると、おどけて、ワンと鳴く。
「今のきみも、吠えてはいないね。ワンと鳴いたんだな。でも、泣いてはいないな」
「はい、そうです。ワンッ」
僕と犬田の和やかな日々が続いた。
犬田は、カウンター越しのお客さん達との会話なども楽しくこなす。
もちろん、話などしないで黙々とお酒を楽しむというお客さんもいて、そんな時、彼らには、どうぞごゆっくりと頷いた後、店内に流れる音楽に身を任せて、カウンターの向こうの隅っこで体を微かにゆらゆらさせる。そんな恰好にも味があった。
犬田は、見る見る人気者になっていった。犬田目当てでやってくるというお客さんも増えて来ていた。
「給料、上げなきゃなぁ」とマジに褒めずにいられない僕に、
「そんなのいいです、まだまだ見習い同然なんですから」と犬田は謙虚さを見せ、また体をゆらゆらさせて、ご愛嬌よろしく長い舌を出し、上唇を上手に舐めた。
そんな犬田の様子に、変化が見受けられるようになったのは、それから半年ばかりが過ぎた頃だっただろうか。
下働き、お客さんとのやり取りと変わらずこなしているが、ふっとうつろな目をして宙を見て、ぼんやりしているような時がある。
どうかしたのか、と訊いても、いえ何でもないです、とちょっと、はにかんで笑ってみせる。
ああー、と僕の脳内が閃いた。なるほど、そうか。そうなのか。
そう、犬田は恋をしていたのだ。
そのお客さんは、ヒト月前の雨降りの夜、一人で初めてやって来た。
ごめんなさーいと謝り、なんだか雨宿りがしたくって、と彼女はカウンター席に座った。
濡れた衣服を、バッグから取り出したハンカチで要領よく拭きながら、「○○お願いします」とどちらかと言えば男性客に人気のカクテルをてきぱきと注文する。
仕事の出来るOLさんってとこかな、とその職掌を見当付けたりしながら、僕はシェイカーを振った。
出来上がったカクテルに口を付けると、「おいしい。とってもおいしいわ」と僕を見、ありがとうと丁寧な口調で言った。
彼女は、右ひだりと宝石が嵌め込まれているのじゃないかと窺ってみたくなるようなキラキラ光る眼をしていて、「おいしい。ええ、とってもおいしいわ」ともう一度繰り返す。
しかし、それからは無口になって、何を話すでもない。キラキラ光る眼はそのままに、グラスの中のカクテルをまたヒト口フタ口と減らし、店内に流れる音楽にただ身を任せるように体を微かにゆらゆらさせる。
あ、この体の揺らし方、ゆらゆらの感じ、犬田とおんなじだ、と僕は思い、ふとカウンターの奥で、おつまみを小皿に盛っている犬田を見ると、彼もおなじくの様子、体をゆらゆらと微かに揺らしている。
これって、何だかイイ感じだな、そうだ、見ていて和むんだ、と僕はあらためて、体をゆらゆらさせる二人を見続けていたくなった。
「きみは、恋をしてるんだな」
僕は、ストレートに、犬田に訊いた。
「ええ、まあ」
犬田もためらいなく、こたえた。
「あのひと――うん、あのお客さんだよな」
「はい」
犬田はためらいなく、またこたえた。
「やっと、めぐり会えたんです」
「やっと?」
「ええ、やっと」
あっとあらためて、僕は犬田を見た。右の眼左の眼がキラキラきらめき光って、ああ、あのお客さんとやっぱりこれだっておんなじだと思わされた。
果たして、犬田は言った。
「あの彼女、いえ、あのお客さんも僕とおんなじ、なんです」
「おんなじ?……」
「そうです。あのひとも、そうなんです」
「そう?」
「そうです。あのひとも、もともとは犬だった……」
犬田は、真っすぐに僕を見た。
「あのひとにめぐり会い、恋をしたからには、ボクは犬に戻れる。そうなんです」
必死な物言いをしてやまない犬田の目は、いつの間にか濡れていた。泣いているのか、と僕は見たが、そうではなかった。めぐり会えた、恋をした、自分は犬に還れる、とその気持の昂ぶりのなせる業――良かったな、と思わず僕は声を洩らしたが、あとの言葉が続かなかった。これで犬田とお別れなんだろうかと思うと、さびしい。つらい。
「あのひととボクは、これから旅に出ることになります。犬に戻って、いっしょに生きて行くことになるのです」
濡れているばかりに見えた犬田の両眼が、またいっそうキラキラと光った。
ああ、やっパりどこから見ても、あの女性とおんなじ目だ、と僕は眩しく、犬田の顔を見返した。
翌日、《お世話になりました~》と1行だけの置手紙ならぬメモみたいなものだけ、カウンターの隅っこに残して、犬田は店を去った――いや、手紙の下にもう一枚紙が敷かれていて、そこには、犬田オリジナルのおつまみのレシピ、その新作と称するものがいくつか書かれてあった。
あいつのおつまみは軒並みお客さんに好評だったからなぁと僕は一人で仕事に励んだ。
せっせと手作りしたおつまみは例外なくお客さんにウケたが、「あのカレは? この頃姿を見ないけれど」と犬田のことを訊かれると、はい、武者修業の旅に出ておりまして、などと僕は冗談ぽく返すのがせいぜいだった。
ヒト月が過ぎ、フタ月が過ぎしているあいだにも、もしかしたら、犬田はまたにんげんになって店に戻って来るのではないか、と僕は時折思うことがあった。
雨降りの夜など、閉店間際の時間などに、入り口のドアが開けば、あの女性が、ごめんなさーい、雨宿りがしたくってと入って来て、その後ろから、ちょっと恥ずかしそうにもぞもぞしながら、犬田が顔を見せる。もちろん、それはにんげんの姿そのものの犬田で――とそんな光景をぼんやり夢見るような僕だったが、叶わぬ夢も見ないよりマシと我を励まし、仕事に精を出すしかなかった。
それからまた、ヒト月、フタ月が過ぎた。
バカみたいに天気のいい日が続き、この分では渇水のおそれもありそうだと天気予報士が毎日TVで伝えていた。
小雨ぐらい降れよ、と僕は投げやりに呟き、降れば雨宿りを気取って、女性と二人連れだろうが店にやって来る犬田を思った。
……そんなある晩、喧嘩でもしているようなけたたましい犬の遠吠えが聞こえてきたかと思うと、見る見る近づく。もう店の前まで、来ている。
僕には、予感があった。
来ちゃったのかな。いや、還って来ちゃったのかな。予感が期待に変わり、僕は店のドアを開けた。
誰もいない。犬一匹さえ、いない、ともっともらしく頷きかける自分を嗤ったところで、ワンとその鳴き声が聞こえた。
一匹の犬が、ちょっと先の電信柱の向こうから、巻き毛の束のようなシッポをフリフリして、こっちを見ているのが夜目にもわかる。
おーいと呼んでやりたくなると、突然パラパラと雨が降ってきた。
久しぶりの雨は、見る見る本降りの勢いとなり、それを避けるように、一匹の犬は僕の近くまでやって来て、また、ワンと鳴いた。
違う、鳴くでもなく吠えているのかな、と僕はその犬を見た。
シッポをフリフリしている犬が、横顔をこちらにと向ける。
その首の辺り、そこだけ栗色の毛のない地肌には縦長の傷でもあるのだろうかと僕は見遣ってみるような素振りをしたのか。
見られて、一匹の犬は、右の眼左の眼をキラキラきらめかせ、もう一度、ワンと鳴いた。いや、吠えたのだった。
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