第三話 シャペロン

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***  月曜日。  拓眞はゆっくりとベッドから身体を起こした。身体が重い。鉛が中に入っているかのようだ。大学に行かなければならない。だが、正直行く気がしなかった。  物が溢れた机の上には昨日マオウが残していった幻想世界のアイテムが置かれている。ひとつはマンドラゴラの根だ。一見するとしなびた大根のような見た目をしているが、明らかに目と口があった。それに小さいが手と足のような突起も見て取れる。それらは、目の前の根菜がかつてマンドラゴラという植物とも動物ともつかない魔法生物だったということを表していた。もう死んでいるのだろうが、大きく開いた口らしき窪みからは今にも叫び声が聞こえてきそうな不気味さがあった。 「橘はこれを陽菜に食べさせたんだな」  マオウによると、乾燥したマンドラゴラの根を粉末状にし、食べ物などに混入させて相手に少量でも経口摂取させれば効果が発揮されるとのことだ。媚薬効果がどうやって食べさせた人物を対象にできるのか機構は分からなかったが、魔法のアイテムなのだ。いわば何でもありなのだろう。 「科学の敗退だな」  だが、拓眞はその魔法生物が引き起こした呪いを科学的に解明し、それを打破する特効薬を見出してみせた。今なら、陽菜がクルクミンを摂取し続ける限り、マンドラゴラの根を副作用無しで使用することができる。その効果は尚央がかけたものに上書きされ、陽菜は拓眞に恋することになる。 「そんなもの、使えないよな」  いくら副作用がないとはいっても、人の心を操る道具だ。そんなものを勝手に使って倫理的に許されるはずがない。だが、マオウは言った。 『恋心が実るというのは幸福状態にあるということですわ。マンドラゴラの根を使われた者をあなたがきちんと愛せば、その者は幸せになれるはずですわ』  恋愛の成就だけが幸せではない。人には夢があり、それを叶えたいと思うことも幸せだ。だが、マオウはそれを否定した。 『人間の欲望はそれほど複雑ではありませんわ。食欲、睡眠欲、性欲の三大欲求、それに承認欲求が加わればたいてい満たされるものですわ。恋愛をしようと思える心の余裕があり、それが満たされたとき、人は至上の幸福を得るのですわ。何と言ってもそれが人間という種が今まで繁栄してきた根本の要因なのですから。いいじゃないですの、本人が幸せなら』  拓眞は机の側まで歩み寄るとマンドラゴラの根を手に取った。完全に干物になっている。 「マンドラゴラの根の呪いの効果は恐らく、食べた人間のタンパク質合成経路に何らかの障害を起こし、正常なタンパク質が作られないようにすることなんだろうな。だから、正常なSOD1合成が阻害され、陽菜はALSに酷似した症状になった。だとしたら、媚薬効果も科学的に説明ができるはず」  人の感情は全て科学で説明ができる。人がどんなことを考えていようと、客観的に見たらそれは単なる電気信号でしかないのだ。人が恋に落ちても、それはホルモンの作用によるもの。きっかけが魔法であろうと薬であろうと同じことだ。  カミサマやマオウにとって、恋も感情も幸福も電気信号。きっと、それを操作することに微塵も躊躇いを覚えないだろう。そして、恐らく尚央にとっても。だからこそ、彼はあのような非道徳的な行動を取れたのだ。 「ホルモンが分泌されて恋に落ちるのも、恋に落ちてホルモンが分泌されるのも、結果としては同じこと。カミサマやマオウ、橘にとって、過程は重要じゃない。結果だけが大事なんだ」  それを否定することはできない。それは視点の問題だからだ。主観で見るか、客観で見るか。
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