恐怖のエレベーター

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恐怖のエレベーター

妻を殺した。 わたしは冷静だった。わたしも、殺される妻も、もっと取り乱すかと思ったのに、淡々とそれは行われた。 妻は薄笑いさえ浮かべていた。まるでわたしを見透かすかのように。 都内の一等地にあるミッション系の大学。正教会系では日本で初めての大学だ。教室棟、事務棟そして礼拝堂に囲まれて、中心に研究室などを集めた高層タワーがそびえている。その5階に学長室をはじめ理事長室や役員室がある。 まさに今、その理事長室から出て来たところだ。ドアのノブについた指紋が気になったが、むしろ学長のわたしの指紋がついていないほうが不自然だろう。あえてそこは拭かない。部屋は適当に荒らしておいた。これならどう見ても強盗のしわざだ。 妻はこの大学の理事長だ。妻の父親がこの大学を建てた。資産家だった彼は晩年、教育事業に情熱を傾けた。もっともそれはビジネスとして、だが。さえない地方私大の教授だったわたしが、その娘と結婚し、この大学の学長におさまった。 恋愛よりもむしろ打算での結婚生活。それでも長く続いた方だと思う。社会的地位が、それを支えていたのだ。 わたしには秘密がある。 研究生だった教え子が、准教授になった。もちろんわたしが推した。美人でおしとやかな女性。わたしは彼女との不倫生活を楽しんだ。いや、むしろ彼女を愛していた。 しかしその甘美な時間も長く続かなかった。妻に不倫がばれたのだ。 妻に離婚を切り出された。それは妻の父親が残した莫大な財産とともに、この大学の学長の立場を失う、ということに他ならない。わたしはなんとか思いとどまってくれるよう、妻に懇願した。しかし妻はわたしを見限っていたのだ。そして見透かされてもいたのだ。 わたしは妻を殺すことにした。 ただし、もう時間はあまりない。何年も計画を練る、ということはできない。離婚の成立とともに、わたしはこの地位を追われてしまうだろう。だから少ないチャンスが到来するのを、わたしが見逃すはずはない。 大学の警備は専ら12人の警備員で昼夜当たる。夜間は3人になり、この高層棟には1名の警備員が配置されている。すでに老人の域に入っている、痩せた男だ。わたしは彼に持病があり、たびたび警備の仕事を休むのを知っていた。そうして今日、彼に休みを与えたのだ。もちろん警備会社には内緒だ。 大学の校内に強盗が入り、殺人までする。当然わたしの責任が問われるが、そんなのは大したことじゃない。わたしがクビになるほどのスキャンダルじゃないからだ。 わたしはそうして悠々と妻の首を絞め、エレべーターに乗った。誰にも会わない。このまま地下の駐車場に降り、車で出て行く。防犯カメラはない。人権にうるさい教授たちが設置を拒んでいるのだ。 3階で止まった。まずい。誰か乗ってくる。何人も乗ってきたら厄介だ。しかし、女がひとり、乗ってきただけだった。いざとなったらこいつも殺して、車でどこかに捨てればいいだけだ。もう、なにもかまっている場合ではない。 エレベーターのドアが閉まって動き出す。一瞬、明かりが消えると、ガクン、とエレベーターが止まった。なんだ?故障か? しばらくしても動く気配がない。ボタンを押しても無駄だった。閉じ込められた。 もうおしまいだ。 いやまて、そうじゃない。これを利用するんだ。これをアリバイにすればいい。今夜は不倫相手の女がアリバイを作ることになっていたが、計画を変えればいい。ただ、それを連絡しなければならない。携帯で事情を説明したいのだが、一緒に乗っている女には聞かれたくない。今はまずい。 とりあえず緊急ボタンを押した。いつまでも連絡しないのは、かえって怪しまれる。 「どうしました?」 小さなスピーカーから男の声がする。 「エレベーターに閉じ込められた。なんとかしてくれ」 「あー、そこに番号が書いてますから、それ言って」 そう男は言った。 まったくなんて言い方だ。誰にものを言っているのだ。しかもぞんざいな対応。よほど学歴のないヤツなんだろう。そういうヤツが社会にいること自体、わたしには信じられない。まあ、いまはそんなことを言っている場合ではない。 「あ、いいか、読み上げるぞ。F483900、だ」 「えす?」 「エフだ」 「あー、じゃ、三十分ぐらいしたら見に行けるから」 「おい、ちょっと、なんでそんなにかかるんだ」 返事はなかった。どうなっているんだ。ここから出られたら必ず問題にしてやる。 まったくついていない。よりによってこんなときに故障だなんて。しかも女と閉じ込められて。女?そういえばさっきからなにも言わない。こんな状況に、叫び声ひとつあげないのだ。 後ろに立っている女に声をかけようと振り向いたとき、わたしの心臓は一瞬、停止した。 妻だった。 殺したはずの妻だった。しかし服装がさっきのものと違う。これは、そうだ、知り合った時のものだ。 「おまえ…なんで…」 妻はじっとわたしを見ている。ずいぶん若いときの顔だ。もしかしたら人違いなのか?いや、たしかに妻だ。わたしと知り合ったときの、紛れもない、妻だ。 「あなたがあたしを殺した理由は知っている」 しゃべった。妻がわたしを見ながらしゃべった。 「あたしは苦しかった。首を絞められたことより、あなたに裏切られたことの方が。あたしはあなたを恨んだ。そうしたらここにいた」 「そ、そ、それは、化けて出たんだな。何でだ」 早すぎないか?死んですぐに化けて出るものなのか?幽霊って、もうちょっと情緒ってものがあるんじゃないか?何日か経って、井戸とかテレビとかから出てくるんじゃないのか? 「なに勝手なこと言ってんのよ。あんたがあたしを殺したんでしょ。化けて出るわよ、そりゃ」 「いや、早すぎるだろ、いくらなんでも」 「時間なの?早いといけないの?忘れたころに出てかないといけないの?そういうルールとかどこにあるの?」 妻は昔から、そういう言い方をする。いつも責められている気がした。だから他の女に安らぎを求めたんだ。 「いや、そうじゃなくて、ふつう死んでから何日かして、なんかあそこに出るなー、とか噂とかになって、ああ、そういえば、というのが世間一般の常識というか」 「死んでしまったら、世間の常識なんかありません」 「じゃあ、あの世のルールとかあるだろ」 「あの世なんかにまだ行ってないし、行く気もないし」 「どこ行くんだよ。ずっとこのままエレベーターの中で幽霊やってるのかよ」 「だれがエレベーターのなかでずっと幽霊やってなきゃならないのよ。もうちょっとちゃんと考えてみようよ。あたしはあんたを祟りに来たのよ。わかる?うらめしや、なのよ」 「恨む気持ちはわかるが、なにもこんなところで祟らなくてもいいだろ。もっとまともなところで祟れよ。なにもわざわざこんなせまっ苦しいところで、まともに顔つき合わせてたら逆に怖くもなんともないぞ」 振り向いたときは一瞬驚いたが、さっき殺した妻の姿より、出会った時のまだ美しさや可愛さがあったころの、あのときの妻の姿があった。だからそっちの方に注意が行ってしまって、肝心の恐怖は抜け落ちてしまっていた。だいいちあのときは、たしかにわたしは妻を愛していた。 「なんであたしがあんたを怖がらせるために出て来たって、そんなこと誰が言ったのよ。言っとくけど、あんたを怖がらせることなんて、これっぽっちも考えてないわ」 「じゃ、何しに来たんだよ。祟るって言ったって、怖がらせなきゃ意味ないだろ」 「だからあんたはダメ人間って呼ばれてんのよ。怖がらせなきゃ祟れないって、誰が決めたの?」 「誰がダメ人間だ。そんなこと言ってるの、お前だけだろ」 酷い。幽霊だって、言っちゃなんないことってあるだろう。 「みんな言ってるわよ。理事のみんなだって、教授だって全員。あんたの大好きなあの准教授の女だって」 「ウソだっ」 「嘘じゃないわ。みんなからいつクビにするんですかって、せっつかれてたのよ」 「ちがう。あの娘がそんなこと言うわけない」 「バカねー。あの女はあんた手なずけて准教授になっただけ。いづれは教授になるため、あんたを利用しようとたくらんでんの」 思い当たるふしが、ないわけでもなかった。あんなに美しい娘が、わたしのような薄汚いおっさんと恋人になるなんて実際あり得ない話だ。客観的に見れば、わかるはずだった。でも、恋は盲目という。歳の差なんて、っていうやつだ。そのわずかな期待はあったのに。 「そーですか。そーですよね。そりゃ、わたしみたいな男がおかしいですよね。だけど、お前よりはずっとましだ!傲慢で冷酷で守銭奴であばずれのくせに!」 「なに逆切れしてんのよ。とことん性根の腐った男ね、ほんと」 「あー、そういうこと言う?腐ってるのはお互い様だろ。フランス語科の教授といい仲になってるお人が、よくいいますよ」 「なによそれ、誰から聞いたのよ?そんなデタラメ。変なこと言わないでよ」 「あーごまかすんだ。幽霊のくせにごまかすんだ」 「幽霊は嘘は言いません」 「それこそ嘘だろ。幽霊が嘘つかないって誰が言ったんだよ。インディアンか、お前は」 「またクソ古いフレーズ言ってるわね。今どき誰がわかんのよそれ」 わたしは知っているのだ。毎週、あの教授のマンションに行っていることを。そして次期学長に、彼が候補に挙がっていることも。 「わたしの目をごまかそうとしてもダメだ。証拠は挙がってるのだ。これに懲りたら成仏しろ」 「ミッション系で成仏いうな。宗教戦争起こす気か、バカ」 「このやろ、ここは日本だ。日本の土着の仏教の何が悪いんだ」 「仏教はインドですー。インド発祥ですー。むかし中国を経て伝わりましたー。はーい、バカ認定」 幽霊に言い負かされた。 「このやろ、バカバカ言うな。そんな品性だから学生集まらないんだ」 「集まんないのはあんたのせいでしょう」 「何言ってんだ。毎年毎年学費値上げしやがって。まったくお前の腐れ親父とそっくりだな、この欲ボケばばあ」 「あたしはともかく父さんの悪口言ったな?もう許せない。呪ってやる」 「そのために出てきてんだろ。だいたい金にしか興味なかったお前の親父を、腐れじじいと言って何が悪いんだ」 「腐れじじいって、なんなのアンタ?何様なの?いい加減、愛想が尽きたわ」 「いやいやいや、幽霊に愛想尽かされるって何なの?それって誰が得すんの」 わけがわからなくなってきた。 「だいたいもとはと言えば、あんたがあたしを殺したからじゃない。少しは反省しなさいよ。反省もできないんじゃもう、サル以下ね」 「誰がサル以下なんだ。コラ。お前はもとから殺される運命なの。わたしに殺される運命だったの。離婚しようとしたり、財産取り上げようとしたから殺したの。悪いかよ!」 「それは、悪いですよ」 急にエレベーターのドアが開いた。私服の男と警官が数人立っていた。 刑事らしい男がバッジ付きの身分証を見せながら、呆れたように言った。 「ひとりでなに騒いでるのかと思いましたよ。さっき、奥さんも発見されました。あなたが殺したんですね」 「いや、あの、その。え?ひとり?」 見回すと、エレベーターにはわたし以外、誰も乗っていなかった。あれ?あいつはどこに行きやがった? 「では、お話は署で聞きましょう」 パトカーから高層タワーを見上げると、理事長室から手を振る妻が見えた。若くて美しい妻が。
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