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こちらの反応を見て、谷地さんはたいしたことはないと言いたげに明るい声で続けた。
「いわゆる、痴話喧嘩ってやつですよ。関係していたのが知人だったものですから、見て見ぬふりも出来なかったんです。ああいうのは……どうにもなりませんね。無難に通り過ぎてくれるのを待つしかないです」
詳細を訊かれたくないのだろう。態度でわかる。これ以上は無作法になりそうだ、と察した。
「早く治るといいですね」
お大事にと口にすると、はい、とすぐさま応じる。
「ありがとうございます」
谷地さんは、ひょいと軽快に頭を下げた。そして訊ねてくる。
「もう、買い物は終わりですか?」
やや高めの、よく通る声を発する。声だけの印象ならば、かなり若く感じる。
「いえ、少々使いすぎました。物欲に負けるまえに引き上げます」
「……おや、なにかいいものを見つけましたか」
ええまあ、と答える。とはいえ、ここで気を良くして手に入れた戦利品をかたっぱしから取り出して広げ、これみよがしにみせびらかすのはさすがにいただけない。あいまいにして、話を振る。
「谷地さんはこれからどうします?」
僕はもういいです、と谷地さんは右手を広げて、ひらひらと横に振った。
「先週、採集してきたのがあるんで。今日は人の手を通すと、どれほど美しくなるのかをじっくり見学させてもらいました」
このひとは鑑賞が好きなのだと話していた。以前も小さな結晶の原石をいくつか、みつくろっているのを会場で見かけたが購入はしていなかった。できれば、自力で見つけたものを愛でたいんです、と話していた。
人の手を介していないもの。自然の中で探し出し、手元において、自分で加工するのだと。
そうだ、と谷地さんが声を出した。
「沈さん、このあとのご予定は?」
谷地さんが、私のハンドルネームで呼びかけてきた。
私がSNS上で沈丁花と名乗って久しい。ギリシャ神話の逸話から、月桂樹の葉と似ているというだけで別名がダフネとなったという樹木。
若かりし頃の古傷を思い起こす呼び名で、血迷ったとしか思えない。だが、愛着があって変えられないでいる。くたびれた独身男が、女と勘違いされる名で呼ばれるのも恥ずかしいので「沈」と呼んでもらうようにしている。
とくに無いですけど、と私が返すと、谷地さんは少年を思わせる顔で笑った。
「もしよろしければですが、うちに来ませんか」
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