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なりすまし
定刻に、パーティー会場に入った前川と美保子は、それとなく周囲に目をやり客達の様子を窺った。
ある宗教団体の教祖が出版した本の50万部突破記念で開催されたパーティーらしく、若年層から年配まで、幅広い年齢層での招待客が会場を埋め尽くしている。
二人は、大学教授とその妻と言うような雰囲気を醸し出しながら、違和感なく、周囲に溶け込めるよう努力していた。
例え事務所からの借り物だとしても、それなりの衣装と靴で装い、来賓のスピーチに拍手を送り、飲み物のグラスをハンカチ越しに持てば、パーティー客の一員として十分に成り立つ。
ここでくれぐれも注意しなければならないのはパーティーバッグから年季の入った財布やキーケースを出さない事である。
持ち物と本人の釣り合いが取れないからと言って通報される事はないにせよ、関心を引いて鎌をかけられたりしては面倒だからだ。
この狐と狸の化かしあいのようなパーティーでも、何人かがこの盛大さに魅せられ、各所で吹聴してくれればそれで元はとれる。信者の多くがハイクラスに属する人々で占められていると言う話が まことしやかに広まれば入会者の数も右肩上がりに増えていく事が予測されるからだ。
前川と美保子は、ある一定の場所にとどまらず、会場を回遊魚のように周り、さもパーティー慣れしているかのように振る舞った。
そんな中、一際大きな拍手が鳴り響き、ステージに目をやると、この会の中心人物ともいえる宗教団体の教祖がステージに上がり、スタンドマイクの前に立った所だった。
男は柔和な笑みをたたえて
「皆様、ようこそお越し下さいました。私がこの『知識の泉』を始めた当初は大変小さな規模の団体でございました。しかし、皆様のお力添えを頂き、これ程までの成長を遂げる事が出来ました。今日は、私の著書『天上人』の50万部突破記念の席ではございますが、私どもからの皆様への感謝の気持ちを形にしたく、お集まり頂いたという意味合いもございます。どうか、最期まで宴をお楽しみ下さい」
と、述べ更に絶大な拍手を受けた。
前川は心の中で「フン」と毒づき「なーに調子こいてんだか」と、ステージ上の男を見た。
だが、一定の人数の人間が心ひとつに、ある事を祈り続けていれば、やがて願いが聞き入れられるというのは、太古の昔から、言い伝えられている事でもある。
鰯の頭も信心からではないが、藁にもすがりたい人々の受け皿は、あった方が良いのだろう。
9時にパーティーは散会となり、前川達は着替えの為、事務所に戻る。
他のパーティー要員も続々と戻ってきており、皆、稲葉美千代の労いの言葉を余所にさっさと、更衣室へと消える。
着替えが終わった所で、一息ついた彼らは、漸く最後、稲葉に深々と礼をし、帳尻合わせの様にして事務所から出ていく。
前川と美保子もそれにならい、全てを終えて田町駅の改札を抜けたのは10時を回った頃だった。
ダブルで仕事が入った事で、少々疲れ気味の二人は、混んでいる電車内に何とか滑り込み、ドア付近に立つ。
蒲田駅に着き、人々から押し出された二人は「やれやれ」と言った感じで改札を出る。
蒲田は駅周辺こそ大変な賑わいをみせている一方、方々に建つビルなどには、老朽化も見られ、再開発を待たれる地域でもある。
二人のマンションは、繫華街を抜けた辺りにあり、前川と美保子は見慣れた風景に眼を留める事もなく、家路を急ぎ、建物の中に入っていく。
二階の角部屋の玄関を開ける役目は前川で、脱ぎ散らかした靴を揃えるのは美保子の仕事だった。
二人は部屋に上がり、必要最小限の家具だけが置かれているリビングに入るとソファで小休止する事もせず、交代で洗面所を使った。次いで、前川が汗を流す為、浴室に入る。
先に入浴を済ませた前川は、美保子に「上がったよ」と声をかけるも
「先に寝てていいわよ。私、やる事あるから」と言われ「じゃ、お先に」
と呟き、寝室へと向かった。
美保子は食事から書き物、繕い物から読書とオールラウンドのダイニングテーブルで、端末を開きあてもなくネットの世界をさまよう。
美保子にとっては、オンとオフの切り替えの為、何としてでもダラダラ過ごす時間が必要であったし、世の中の情勢や、巷では何が流行っているのかを知る上でも欠かせない一コマとなっていた。
ネットニュースでは、全人口における高齢者の占める割合が、いよいよ抜き差しならない所まで来ているとしており、介護職に従事する人々を如何にして確保していくかが依然として国の重要課題に挙げられていた。
美保子は「私達夫婦も、何とかこれまでやってこられたものの、この先何が起こっても困らないようにしておかないと」と思い「節約、節約」と自らに言い聞かせた。
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