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持ちつ持たれつ
翌朝は単身で仕事が入っている夫の為に、トースト、スクランブルエッグ、コーヒーの朝食を用意する。
添えられたサラダにピエトロのドレッシングを慎重に垂らした夫は、山梨での映画撮影にエキストラとして参加する為、新宿で仲間と落ち合う予定だった。
「スムーズに行けば、帰りは4日後かな?どっちにしろ鍵は持ってるし、美保子が留守にしてても大丈夫だから」
「了解。じゃ、気を付けて」
「行ってきます」
前川は時代を感じさせるパイロットシャツを物ともせず着用し、意気揚々と部屋から出ていった。
その直後、美保子の下に稲葉から、仕事の打ち合わせをしたいので、明日、事務所に顔を出してほしいとの連絡が入る。
美保子は、10時に会う約束を取り付けると町に買い物に出た。
近所にあるスーパーは品質が良い割に、価格も抑えられているという事で、常に買い物客でごった返していた。
美保子は、スーパーであえてこれを買おうと決めず、行き当たりばったり、目についた物を吟味して購入するのが好きだった。
鮮魚コーナーで新鮮な刺身の盛り合わせを目にした美保子は思わず購買欲が高まり、その場に足を止める。
しかし、自らの故郷、焼津ならば、この価格の三割引きで手に入る事を踏まえ「こんな高価なもの、買ってられないし」と我に返った。
美保子は鮮魚コーナーに来るとどうしても、亡き母の事を思い出してしまう。
母は高校卒業後、地元の金融機関に勤めていたが、親戚からの紹介で新聞記者の父と見合いし、結婚する。
すぐに、美保子が誕生し、美保子の母は世界中の幸せが自分の下に押し寄せて来たような錯覚を覚えた。
しかし、結婚当初真面目だった夫は、単に猫をかぶっていただけで、実は女に見境のないどうしようもない男だった。
余所に女を作り、その家に寝泊まりする父に相当やきもきさせられた母ではあったが、月々の生活費はきちんと届けられたこともあり、次第に二人の間のわだかまりも解けていく。
父からの生活費が届いた日、決まって母は美保子を連れてスーパーに行き、鮮魚コーナーで品定めをするのが通例となっていた。
母は父からの月々の金によって、生活は出来ていたものの、知り合いのつてで
お針子の仕事などもやり、日々精力的に過ごしていた。
そんな母も美保子が短大に入った年、脳溢血で他界した。
葬儀に顔を出さない父に「なんて薄情な奴」と、怒り心頭の美保子ではあったが、父からしてみれば、これまで二人をほったらかし、葬儀の時のみ
顔を出すのも、道義に反すると考えての事だったのだろう。
翌日、打ち合わせの為、田町駅からほど近い所属先の事務所に足を運ぶ。
事務所代表の稲葉は自ら淹れた二人分のコーヒーをトレーに載せ、席に着く。
「美保子さん、ごめんなさいね。前川ちゃんも一緒の方が良かったかしら?」
「お気遣いなく。こういう仕事は早目に教えて頂いた方が私達にとっても準備に時間を割けますし」
「今度のお仕事はね。新規で弁護士事務所を開業する弁護士からの依頼で、事務所で使うパンフレットに、自分の親として収まってくれる人を探してるそうなの」
「なるほど。そうしたパンフレットって今までなかったから、ある意味画期的かも知れませんね」
「私が先方から大体のコンセプトについて聞き、追って連絡します。
あと、うちの弟からの依頼も来ててね。こっちは、旦那込みじゃないとだめだから、又、後日改めて」
美保子は「わかりました」と言い、事務所を後にした。
前川は明治時代、貧しさに喘ぐ村を救おうとした男の一生を描いた作品に、農民役として出ていた。
所詮、クローズアップされる訳でもなく、鍬を振り下ろす姿が遠目に映る位なのだが、監督が四ツ木孝と聞き、参加を決めた。
四ツ木は、社会派映画の巨匠と呼ばれており、組む相手が飛ぶ鳥を落とす勢いのある俳優でも、自身の納得のいく演技が出来なければ "とことんやり直しを命ずる"という、一本筋が通った男だった。
そして今回この映画の主役を務めるアイドル上がりの設楽淳も、過去、四ツ木に徹底的にしごかれ、結果ひと皮向けた演技が出来るようになったと言われている1人だった。
前川はセリフの無い「農民A」というような端役ではあっても、映画制作側の一員として、数えられているというだけで有難く
「ひょっとしたら、その内、チャンスが回ってくるかもしれない」という淡い期待と共に、現在の生活を続ける格好の理由となっていた。
撮影は天候に恵まれた事もあり、滞りなく進んでいった。
エキストラとしての最後の収録を終えた前川は、稲葉からの呼び出しがかかっている為、仲間と飲む予定を返上し東京に戻った。
ひと昔前の判で押したような、季節に則った天候が見られなくなった昨今においては、適当にニュースを見ているだけではなく、全神経を研ぎ澄まして、気象予報士の放つ言葉に耳を傾けなければならない。
こうした不安定な天気を物ともせず、目黒のとある撮影スタジオでは、弁護士事務所新規開業のための宣伝写真の撮影が行なわれていた。
クライアントである大柴雅樹はノンフレームの眼鏡の奥から知的な視線を放ち、フォトグラファーの注文通りにポーズを決め、傍目にも大分、場馴れしているように見えた。
そんな中、アシスタントから「それではご両親も入って下さい」と言われ、前川と美保子も椅子に掛けた大柴の背後に立つ。
「それでは、今度は逆バージョンで、ご両親が椅子に掛け、後ろに息子さんが立つ構図で行きましょう」
手を変え品を変えと言った言葉のように、三人は、フォトグラファーの指示に沿い、ポーズを決め、撮影は一時間弱で終了となる。
着替えを済ませた二人は挨拶の為、大柴の下へ行くと
「おかげさまでいい宣伝写真が撮れました。もしお時間ありましたら、近所の喫茶店でお茶でもいかがですか?」
と誘われる。
自分達とは住む世界が違うと勝手に思い込んでいた節もあるが、それを覆すかのような人懐っこい大柴の笑顔に美保子のみならず、前川までもが
「すみませんねぇ」と話に乗っかった。
大柴は二人の先を行くが、目当ての喫茶店まで来ると、入り口に立ち、ドアボーイのようにしてドアを開け、先に二人を中に通す。
席に着き、サイフォン式のコーヒーが運ばれた後も、自らが砂糖担当でもあるかのようにシュガーポットを手元に引き寄せ「お砂糖、何杯入れましょうか?」と聞いてきた。
「この人はブラックで、私は、二杯でお願いします」
当たり障りのない話の後、大柴は前川と美保子が聞きたがっている事についてさりげなく語り始めた。
「弁護士仲間のHPを見ると、どれも似たり寄ったりでしてね。
ファミリー色を出してみたら面白いんじゃないか?と思い、プロのお力を借りたのです。少々あざといかなーとも考えたのですが…」
それに対して前川が
「実の親御さんに頼もうとはなさらなかったのですか?」
と単刀直入に問うと
「うちは、父の定年退職を待って、母が離婚を切り出すという熟年離婚のケースでしてね。
それぞれ、自分の好きなように生きる道を選んだ結果、見事に家族バラバラになってしまいました。父は、確かに仕事に忙殺されておりましたが、決して女に走ったり、趣味に高額投じた訳でもなく、極々世間にありがちな不器用を絵に描いたような真面目な男だったんです。
だから、哀れと言うか…
思わずお袋に、お前一体何、考えてんだよ!って言いたくなりましたよ」
と数カ月前の出来事を、つい先日のことのように言う。
言葉を失ってしまった前川をフォローするかのように美保子が
「お父様、きっと素敵な方だと思うから、早く、ガールフレンドなり恋人なり作って、お母様を見返してやればいいんじゃないかな」
と言い、しんみりしている男達を何とか元気づけようとする。
大柴は
「ホント、そうですよね。いい話聞いた。
これからは週末、渋谷あたりに行って、父と二人、親子でナンパしまくろうかな。と言うのは冗談ですが、今後、なるべく父のそばについててやろうと思ってます。
僕はここで失礼しますが、お二人はまだゆっくりしてって下さい」
と言い伝票を持って会計へと向かった。
「一流大学出て、難しい国家試験通った人でも、裏を返せば親の離婚と言ったような月並みな事で悩みを抱えているもんなんだな」
と前川は思い、大柴の父が第二の春をゲットしてくれるよう願った。
午後になり二人は、事務所の代表、稲葉美千代との打ち合わせの為、事務所に顔を出す。
「お疲れ様、今日は前に話してた仕事の件でクライアントの要望を伝えておこうと思って。まぁ、掛けてよ」
挨拶もそこそこに、稲葉は早速、本題に入る。
「今回のクライアントの田崎さんはね、元々柔道で名をはせた人物で、日本代表として選出された事もある、その世界では有名な人なの。
で、名声を手にした後、今度は今の日本の惨状を何とかせねばと考えた。ニュースでは、田崎さんの子供時代に比べ、子供達が皆、行き場を見失っているような暗い話ばっかりやっているでしょう。
俺が子供達の道しるべになってやる!と思ったようね。
それで打ち出されたのが、柔道で身体を鍛えながら人間としてどうあるべきかも教えて行くと言う塾を始めること。
でね、あなた達に、そのビデオへの出演依頼がきているの」
「そのビデオで、何を演じればいいの?」
「手短に言うと、過去、ぐれて、警察の世話にもなったという少年の両親。
もう自分達では、どうにもならないとしていた所を田崎さんに救ってもらったという…」
概要を聞き前川は「美保子に限って言えば、メイクで若作り出来るとしても自分はどうだろう?」とした不安を抱くが、早くも隣の美保子が目を爛々と輝かせた事もあり、黙っていた。
数日後、事務所で“松濤塾“主催者、田崎を交えて、塾の宣伝ビデオについての打ち合わせが行われた。
現れた田崎は、堂々とした体躯に幾分スーツがきついように見え、美保子は
一言口を挟みたい気持ちになる。
だが「余計なお世話なんだよ」と一喝されそうな雰囲気もあり、やめた。
前川らと、田崎は、それぞれ稲葉から紹介された後、事務所のソファーに差し向かいでかけた。
前川は先方から「こんなにじじぃだとは思わなかった」と言われないよう、前日、美保子からヘアダイを受けこの場に臨んだ。
美保子は過去化粧品訪問販売をやっていた事もあり、ファンデーション、コンシーラー等、メイク用品には、殊の外詳しい。
今回も自身の持てる技術を駆使し「夫を六~七歳は若返らせたはず」と、自負していた。
気のせいか、夫にも普段以上の自信がみなぎっているようにも見える。
前川は満を持して、と言うように
「今回はご指名頂き有難うございます。子供を更生させてもらった親と言う事ですが、夫婦像として何かありますか?」
と、田崎に聞く。田崎は
「そうですね。一度、修羅場を見てきている家族という事であれば、ホームドラマに出てくるようなほのぼのとした感じではないというか…尚且つ『危機を乗り越えて、現在に至る』といった芯の強さも出したいですね」
と述べる。そこで稲葉が
「これまで、前川達が仕事で演じてきた役柄の画像がありますので、それを見て、参考にして頂きましょうか?」
と言い、タブレットを渡した。
「すごいなぁ。人ってこんなにも見た目を変えられるものなんですね」
前川は、感嘆の声を上げている田崎を見て、静岡で寺の住職を務めていた父の事を思い出していた。
齢70で、癌の為、この世を去った父は、世間の役に立ちたいという気持ちもあり、非行少年らを寺で預り、更生させるというボランティア活動を行っていた。
預かるとは言え、少年達は「離れ」で生活しており、同じ敷地内でも顔を合わせる事は殆どなかった。
父は、自分一人では無理があると考え、古くからの剣道仲間などにも声をかけ、指導を手伝ってもらっていた。
少年達の多くは更生し、寺から無事、巣立っていったが、二割ほどは再び、悪の道にからめとられていった。
前川には「父さん、何でこんな大変な事引き受けているんだろう?」とした思いがあり、当然、二歳上の兄も、同じ思いでいると確信していた。
しかし兄は、高校を出ると仏教系の大学に進み、卒業後比叡山で修行した後、家を継いだ。
前川は兄に、どうして寺を継いだのか聞いてみた事があった。兄は
「高3の進路を決めるとき、父さんと二人、色々話したんだ。父さんは狂犬もどきの少年達を相手に、毎日、奮闘してた訳だけど、請け負って良かったなと思える瞬間もあったらしい。
彼らは家庭環境が複雑で、菓子パンやカップ麵だけで育ってきてるから、炊き立ての御飯や出来立ての味噌汁なんて口にした事がない。そうした彼らがそれらを食べて “世の中にこんなにも美味いものがあったなんて“ と感激している様子や、ボランティアの学生達による学習指導で一生懸命勉強に食らいついている姿を見たりすると、自分の活動は決して無駄じゃないって思えたって言っててさ。
父さん、そんなに強い男じゃないのに、すげぇって思って。
同時に、俺が助けないで誰がこの人助けるんだよという気持ちになった」
と言い「青春ドラマのセリフみたいで噓っぽく聞こえるかもしれないけど」と照れた。
父にしろ、兄にしろ、功名心にかられての行動ではない。
それを得たいのであれば、もっと安全で楽な方法を取るはずだ。
果たして、目の前にいるこの男はどうなのだろう?
そんな思いを抱いた瞬間、田崎はこちらを真っ直ぐに見据え
「自分は生まれも育ちも大阪の堺でしてね。母親が豪快な人物で、近所の育児放棄されている子供を家に入れて飯を食わせてやったり、銭湯に連れて行ったりしていました。腕のいい植木職人だった父も、困った時にはお互い様っていうのが信条だったから、自然に姉と自分もそういった考えに傾倒していったのかも知れませんね」
と並々ならぬ思いを語った。美保子は
「お母様、すごいわぁ。そこまでやってくれるなんて」
と手放しで褒めたが、田崎は当然の事をしたまでと言うように、その毅然とした態度を崩さなかった。
「それでは、大体の筋道が決まった所で今日は解散。三日後に麻布十番の貸しスタジオで撮影が行われますので、皆さん、宜しくお願い致します」
と稲葉が言い、一同、場を離れた。
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