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さらなる仕事
柔道家田崎の、子供達の精神を鍛え、且つ丈夫な肉体も育成していくと言う主旨の塾の宣伝映像を撮り終えた前川と美保子は、午後、田町の事務所に立ち寄る。
「お疲れ様、七月からこんなに暑いんじゃ来月はどうなるのか、今から心配。
あっ、まずあなた達、衣装着替えなくちゃね。今、空いてるから、先に着替えて」
と、稲葉に促され、更衣室へと向かう。
そして職業柄というべきか、出動がかかった消防隊員のように、有無を言わさぬ速さで、着替えを終える。
稲葉は予め、そう予測していたように、早々とアイスティーをテーブルに運び、余裕で席についていた。
「まずは冷たいものでも飲んで、一息入れて」
美保子は有り難いとばかりに、汗をかいたグラスに入った琥珀色の液体を喉に流しいれた。
身体の隅々に、レモンティー独自の苦みと砂糖の甘みが染み渡っていくような感覚があり、一瞬、自分が植物にでもなったような気分になる。
稲葉は
「うちの弟から来た話なんだけど、4,5分、時間いいかしら?」
と断ったが、実際、4,5分で終わったためしなどなかった。
稲葉の話によると、クライアントは幼い頃、両親と死に別れ、その後祖父母宅で育ち、国立大医学部を出て、現在内科医として勤務している30代の男だと言う。
そして、彼は医局員時代に知り合った同業の女医と、二年の交際期間を経て結婚する事になったのだが、自身の親戚が殆どおらず、披露宴における親族の席が埋まらないという事実に気づいた。
何とか体裁を整えなければと思い、稲葉の弟に、相談を持ちかけたという事だった。
「それでね。弟は、その医師の親戚として私の所から何人か貸してもらって、披露宴に出席させたい意向なのよ」
「確かにね。ある程度均衡がとれてないと、それはそれで語り継がれるというか」
と言う美保子に、前川は
「一度さ、親戚として披露宴に出る奴で集まって、すり合わせをしておかないとまずいだろうな」
と述べ、リハーサルの必要性を訴えた。稲葉はこうなる事を予想していたように
「区民向けに開放している会議室を押さえておいたので、そこで打ち合わせを行いましょう」
と締めくくった。
週末、稲葉美千代事務所に所属するタレント、18名が、港区区民会館の小会議室に集まった。
コの字型に並べられた机上で、メンバー一人一人が、役柄上でのプロフィールが記載されたプリントを前に真剣な表情で目を通している。
司会進行役の稲葉は、全員を役柄上での名前で紹介すると、宴席でのNG事項などについて説明していく。
「プリントには、新郎との関係性が書いてありますので、当日まで覚えきって下さいね。不安な方はカンニングペーパー持参で。
それと、良く『お勤めはどちらですか?』と聞いてくる人がいますが、会社名は言わずお茶を濁すように。
それではこれから、すり合わせをしていくので、数人ずつのグループに分かれて下さい」
前川は新郎の叔父という重要な役柄を与えられ、まるで紅白でトリを務める歌手のような意気込みで、グループの輪に加わる。
「じゃ、練習を兼ねて役名で自己紹介をしていきましょう」との前川の音頭で、新郎の母方の兄弟を務めるメンバーが、一人ずつ名乗っていく。
「長男の結城一郎です。メーカー勤務で、嫁いだ娘がおり、現在は妻と二人暮らしです」
「次男で、結城賢二と申します。仕事は自営で内装業をやってまして、妻は介護職についてます」
それぞれ、妻も横についていて、どこから見ても本物の夫婦に見える。
前川は
「三男の結城耕三です。仕事は司会業をやっており、妻はメイクアップアーティスト。塾講師をしている息子がおります」
と述べた。
皆、一様に、その情報を間違えずに演じきれるだろうか?とした不安な表情を浮かべるが、そこで美保子の
「皆さん、大丈夫。披露宴ってお酒を飲むじゃないですか。
人の話なんて聞いたところで、3分もしない内に忘れてしまいますから」
というフォローが入ると「それもそうだね」といった具合に隣にいる者と頷き合った。
「それと神前で式を挙げる際の親族紹介ですけど、長男の結城一郎さんにお願いしてもよろしいでしょうか?」
と美保子が水を向けると、長男役の男は「言われなくてもわかってる」としたように親指を突きだした。
稲葉は
「皆さん、大体のお話し合いはついたかしら?
後は、各グループでまとめ役を任命してもらって、何かあったらその人に相談してもらうのもアリでしょうね。お疲れ様でした」と述べ、皆が会議室から出ていくのを見送った。
前川と美保子は蒲田で電車を降りると、コンコースで「ウィークリー駅弁フェア」が開催されているのに気づく。
駅弁フリークの前川は、さっさと帰路に就きたい美保子に悪いとは思いつつも
「ちょっと、見ていこうよ」と声をかけた。
午後二時を回り、昼時のピークは過ぎたと見えて、売り場はそれ程混み合ってはいなかった。
美保子自身、初夏の陽気で食欲がなく、昼食ぬきでも構わない位であったが、夫は既に抜かりなく売り場を移動して、品定めをしており、とても制止できる状態ではなかった。
いつの間にか、車窓の傍らでなくても楽しめるようになった駅弁。
特設コーナーとして、一時的に作られた売り場に、バラエティーに富んだ弁当が並べられ、買う気がなくても思わず覗き込みたい気持ちになる。
ー何でもいいから、早いとこ決めなければー
とした美保子の目に留まったのは「コッコちゃん弁当」だった。
コッコちゃん弁当は、俗に言う鶏そぼろ弁当で、700円という価格も美保子にとってはうってつけと言えた。
美保子は迷うことなくコッコちゃん弁当を手に取り、釜めし弁当を持ちこちらの様子を窺っている夫に託した。
そして、20種類はあろうかと思われる駅弁を見て、これらが今日一日で売りさばけるのだろうかと疑問に思った。
価格は1200円前後が多く、家計を預かる主婦から見たら「高い、却下」と、ぶった切られて「終了」となると思われた。だが、それが独身男性となると、話は別で、終了間際ともなると彼らの二重三重もの輪が売り場を取り囲むようにして形成されるのが容易に想像できた。
ー 心配ご無用ってわけだ ー
美保子はそう結論づけると、会計を済ませて、最早、はやる気持ちを抑えられない夫に一瞥をくれ「さっ、帰りましょ」と母のように誘った。
マンションに戻ると、部屋の中が蒸しており、前川は、我先にエアコンのスイッチを入れた。美保子は
「私、すぐにお風呂入りたいから、先に食べててくれる」
と言い、釜めし弁当に添える飲み物を用意した。
ざっと、シャワーで汗を流すと、食欲もそれなりに湧いてきて、美保子はやっと食事をしようという気になる。
服を着て、洗面台の鏡に映ったすっぴんの顔を見ると、後ろめたい気持ちに全身を包まれるが「えぇい、ままよ」と唱えて、洗面所を出る。
既に釜めし弁当を完食した夫は、いよいよ動きたくない様子ではあったが
自らを鼓舞するように「よしっ、俺も入るか」と一言言って、浴室に消えた。
美保子は、その比較的、しゃんとしている背筋を目で追い、今一度、二人の関係性について考えてみた。
今の二人はラブラブどころか、単なる同居人のような関係だ。
知り合った劇団においても、三年先輩というだけで、決して雲の上の存在ではなかった。端正な顔立ちながらも、他の女性劇団員からは「ワイルドさにかける」「これといった特徴がない」などと言われ、特に注目される事もなかった。
前川は、美保子の誕生日にもケーキ一つ買ってきてくれる訳でもなく、そういう意味では全く女心をわかっていない人物と言えた。
しかし前川は、時にヒステリックになり、喧嘩を吹っ掛ける自分に言い返してくる事もせず、常に平穏な立ち位置にいた。
美保子は以前、感情の振り幅が大きい男と付き合っていたことがある。どちらも「引く」という事をしないため、何かで衝突しては激しく罵り合い、最後には狂おしく抱擁して折り合いをつける、と言う日々が、苦い記憶としてよみがえる。
結局、その恋は、互いのエネルギーを使い果たし、二人共疑心暗鬼の塊のようになって終わった。
美保子は今更ながらに自分には前川のような男がピッタリなのだと確信し、この関係を保ち続けなければと決意した。
明けて日曜は、夫婦で、区民スポーツセンターに行く。トレッドミルやエアロバイクなどを使って運動した後、所定の位置に設置されている体重計に載る。
月に数回、この様な機会を持つ事で体重管理が出来てしまうのだから「日本に生まれて本当によかった」とした感情を持てたのも最初の頃だけで、今ではすっかり当然の権利として、あらゆるマシーンを使いこなしていた。
月曜からは通信教育大手のパンフレットの仕事、スーパーマーケットのチラシ、イベントのサクラ要員、夫のみのエキストラの仕事などが目白押しで、
予定されており、二人はこの稼ぎ時を逃してたまるか!という勢いで仕事を受け続けた。
九月になり、都内ホテルにて、にわか親族参加による結婚式及び披露宴が開催された。
稲葉美千代からの数枚に及ぶ注意事項を書き連ねたプリントの効果もあり、神前式は無事、終了する。
よって、その後、披露宴が始まる頃には、皆すでに一仕事終えたような、すがすがしさを湛えて、親族席についていた。
新郎新婦双方の恩師に当たる教授が呼ばれ、祝辞の後「乾杯」とグラスを高く掲げた際も、各自手にしたシャンパングラスに少し口をつけた程度で、グイっと一気にいった者はいない。
前川は「うん、いい感じのスタートをきってる」とし、ほっと胸をなでおろした。
しかし、宴も酣となった時点で、情勢があやしくなる。
他のテーブルから大勢の人々が前川達のテーブルめがけ、酌をしにやってきたのだ。
前川は今まで持ちこたえていた新郎陣営が音を立てて崩壊していくのを為す術もなく見ていた。
そして、前川自身にも多少のアルコールが入って
「面白い。こうなれば後は野となれ山となれだ」
と投げやりになっていった。
一方、美保子は、事務所の代表の稲葉美千代をがっかりさせたくないとの思いで「何とかしないと!」と対策を練る。
そして、長男の結城一郎の下に行き
「お兄さん、駄目じゃない。こんなに酔っぱらっちゃって」と言い
今まさに注がれた酒を
「すみません。本人、かなり出来上がってるみたいなので私が代わりに頂きます」と言って、飲み干した。
妻の制止を振り切り、テーブルに突っ伏して寝ようとしていた結城賢二には、その背中に氷を二、三個入れ、目覚めさせた後、速攻で眠眠打破を飲ませた。
他の親戚達にも「がんばって、もう少しの辛抱だからね」と声を掛けて回る。
美保子の八面六臂の活躍が功を奏し、新郎側親族は何とか体面を保つ。
二時間余りで披露宴が終わると、新郎側の親族は、何事もなかったかのように三々五々会場から引き揚げて行き、美保子と前川もそれにならい、ホテルから出た。
美保子は新郎側に回ってきた酒を一人、請け負って飲んでいた事もあり、前川に軽くお茶していきたいと願い出る。
田町駅近くの喫茶店に入った二人は、注文したアイスコーヒーで一息つくと、
怒涛の二時間を振り返った。
「しかし、凄かったよな。俺達のテーブル」
「無理もないわよ。数では新婦側の招待客の方が圧倒的に多い訳だから、酌に来る人数もすごい事になるってわかりそうなものなのに」
「してやられたな…
でも、美保子が機転を利かしてくれたお陰で何とか事なきを得た」
「まぁね。あたしだって、やるときゃやるわよ」
実際、急性アルコール中毒で救急車を呼ぶような事態になっていたらどうなっていただろう?
美保子は、急に現実に引き戻されたかのようになり、自身のやり方が少々荒っぽかったかな?と反省した。
「そろそろ、戻ろうか?」
「そうだね」
事務所のドアを開けると稲葉が
「お疲れ様、大変だったわね。もう、みんな帰ったからすぐ着替えられるわよ」
と述べ、二人そろってロッカールームに入る。数分で着替え終わり出てくると
稲葉から、ソファに座るように言われ、取り敢えず従う。
稲葉は自分のデスクの引き出しからチケットのようなものを取り出すと
「これ、鬼怒川金谷ホテルの宿泊券なんだけど、あなた達二人で行って来てくれない?」
と言って、二人の前に券を置く。美保子は
「金谷ホテルって言ったら一流ホテルじゃないですか。いいんですか?
私達が頂いても」
と半信半疑で聞く。裕福な家の出である稲葉は、今更高級ホテルに執着する理由も無いと言った感じで
「父がね、ここのお偉いさんと懇意にしていた経緯で頂いたものなの。
でも、ペアの宿泊券だから一人で行く訳にもいかなくて」
と言う。前川は女達の七面倒くさいやり取りを終結したいとばかりに
「有り難うございます。良かったなぁ、美保子。
こんな機会滅多にないぞ」
と言い、もらったチケットを恭しく額の上まで、持ち上げ頭を下げた。
9月、前川と美保子は、事務所代表の稲葉美千代からもらった宿泊券を使うべく、東武浅草駅から電車で鬼怒川温泉へと出向いた。
鬼怒川温泉駅から、徒歩5分の場所にある金谷ホテルは、明治26年に日光金谷ホテルを開業した金谷善一郎からの流れを組むホテルとされている。
チェックインにはまだ時間があったので、二人は、ホテルのフロントに荷物を預けて鬼怒川温泉ロープウェイに乗る。
そして丸山の山頂までロープウェイで上り、展望台からの景色を見る。
木製の枠組みからなる簡素な作りの展望台からの見晴らしは、何も遮るものがなく、遠くには那須連山なども見渡せた。
「サイコーこれたけでも来た甲斐あったね」
「うん。ロープウェイにちょっと乗っただけで、こんな景色が見られるってのは、めっけもんだ」
美保子はその言い回しに「ダサっ」と思ったが、せっかくの遠出に水を差してはならないと思い、聞き流した。
そうこうしている内に頃合いも良くなってきたので、ホテルに戻る。
チェックインを済ませると、和服の女性が付き、四階の部屋に通される。
部屋は、和室とベッドが並べられたフローリングの二間からなっていて、広目のウッドデッキには、椅子とテーブルが置かれていた。
美保子は、窓近くまで寄り
「緑が目に迫ってくるよう。
都心から二時間あまりで、こうした自然に出会えるなんて思ってもみなかった」
と感嘆の声を挙げた。
二人はその後、再び、温泉街に出て、土産物屋を覗いたり、カフェで休憩したりした後、宿に戻る。
「そろそろ時間だな、夕食に行こう」
前川の提案で、ダイニングルームに行くと、平日という事もあり、席についている客の数はまばらだった。
料理は、和洋折衷のいいとこどりといった感じで、数多くの器に、口をつけるのがもったいなくなるような品々が盛り付けられていた。
献立に八潮鱒のオーブン焼き、豆乳蒸しうに餡かけがあるのを見つけた二人は、白のグラスワインをオーダーし、グラスを重ね合わせた。
「美保子とこれからも、持ちつ持たれつでやっていけます様に」
「フフ」
前川はグラスを合わせた後、一口飲み「シャトーオーブリオン、やっぱ美味しいね」と感想をもらした。
ワインの力もあるのか、前川の食べるペースがいつもより早い…と気づいた美保子は、ワイングラスを口に運びつつ、その様子を観察する。
「ゆっくり味わいたいのに、男ってどうしてがっついてしまうんだろうな」
と言う前川に、美保子は
「大丈夫よ。誰も見てないって」
とフォローしながら、二人の今までを振り返ってみた。
劇団で、勝手がわからず右往左往していた自分をフォローしてくれた事。
売れていったかつての俳優仲間を羨んだりせず、逆にわが事のように活躍を喜んでいる事。
ー人を蹴落としても有名になりたいー
といかないまでも、もう少し、要領よく立ち回れればいいのに。
本当に、お人好しなんだから…
食後、コーヒーとスイーツのサービスがあるというので、ラウンジに場を変える。
ラウンジ中央にワゴンが置かれておりその上にシルバーの大トレーが載っていた。
トレーには様々なチョコレートが宝石のように並べられている。
美保子と前川は暫しその美しさに見とれて棒立ちのようになっていたが、すぐに我に返りチョコレートを小皿に取りはじめた。
日頃、チラシでどこの店が安いか、目を皿の様にして見ている自分とは、別の自分がここにいる、と美保子は思った。
この後、二人で部屋に戻ってからはどういう展開になるのだろう?
普通の恋人達ならば、このロマンチックな場面で最高の盛り上がりを迎えるのだろうが、きっと夫は風呂の後、先に床に就き、一人寝息を立てるに違いない。
だがそれでいい。
これからも波風立てる事なく、肩を並べて歩いていければそれだけで万々歳だ。
美保子は既に数個目を数えるチョコレートを目を細めて味わっている夫を正面から見据え、そう心に留めた。
了
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