それでも傍にいたかった

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 待合いのロビーは、かなり混んでいた。壁に掛けてある大きな振り子時計の短針が九を回ったところだというのに、あらかた座席が埋まっている。  仕方なく二人並んで立ったまま受付を済ませている間に新たに診察の声がかかり、看護師に付き添われて老夫婦が奥へと消えていく。  空いたばかりの席に腰を下ろすと、どちらからともなく安堵の息がこぼれた。 「良かったね」  囁くような女の声に、隣の男性が頷く。 「助かったよ。この中では若いといっても、流石に立ったままは辛いからな」  二人揃って使い捨てのマスクをしており、室内にはきついくらいに冷房が利いているというのに赤みがかった顔色をしている。この様子で内科を訪れているということは、揃って風邪でもひいてしまったのかもしれない。少し潤んだような瞳で時折相手を窺うのは、熱が高いからだろうか。  はふ、と女が吐息して、男が気遣わしげに眉を下げた。 「辛かったら寄っかかるといいよ」  自分も普段より荒い息づかいをしているくせに、と女は微笑する。大丈夫、と囁いて、男の腿に手のひらを置いた。  厚地のスラックス越しに彼女の体温が伝わり、自分もその手に重ねるようにして、そっと握る。  ほう、と女がまた息を吐いた。ゆっくりと瞬きして、その視線は受付の向こうを射るように見つめている。  まっすぐな眼差し。けれど、瞳は不安さを隠しもせずに揺れている。或いは戸惑いかもしれない。  ついに、怖れていたときが来てしまったのだ。  一つ前の夏が始まる頃、ふたりはとあるガーデンテラスで、丸いテーブルの上の紙を見つめていた。  曇天の多かったこの夏に比べて、早くから降るようにクマ蝉が鳴いていた。  テーブルの中央に刺さったパラソルの遮光範囲は限られており、僅かな影に身を寄せあうように腰掛けていた。  南国の色を模したカラフルな飲み物が大きなガラスコップになみなみと注がれているものの、一度しっとり濡れてしまったコースターも乾くくらいにときが過ぎてしまっている。  ぎゅうぎゅうに詰まっていた氷が溶け、最後の一個が小さく表面に浮いてきた。世界は蝉時雨に満たされている。殆どの客は涼しい店内に引っ込んでしまっているため、ごくまれに外で注文する客も、長居は無用とすぐに席を立って消えていく。異様な雰囲気のふたりに、店員は好奇の視線を投げかけつつも、呼ばれない限り近付いてはこない。  男が身じろぎして、僅かにテーブルに当たった。ふたりの手元にほど近い場所に置かれたままのボールペンが滑り、胸ポケットに留めるための金具のお陰で半回転しただけでぴたりと止まった。  初めて気付いたかのように、女が手に取る。ぱっと見て、万年筆のようにも見えるボールペンだ。蒔絵がぐるりと精緻に施されており、眺めていると心が凪いでくるようだった。 「素敵ね」  前かがみになっていた姿勢を正すと、そっと笑い掛ける。もう長い時間を共に過ごしてきたはずなのに、このペンは初めて目にした。  同伴者に倣い、男も背筋を伸ばす。ちょっといいだろ、と同じように視線が和らいだ。 「先輩っていうのかな、学校のとかじゃなくて、仕事で関わった人生の大先輩の方だけど」  手を伸ばし、人差し指でそうっとペンに触れる。女は自分の手に持ったまま、それを見つめている。ペンに自意識があったなら、羞恥で居たたまれなくなるほどに熱の籠もった視線だった。 「大切な書類は、安いペンで書き込んじゃ駄目だ。一生が掛かっているならなおのこと、それなりに格のある筆記具を使わなきゃ失礼だ、てさ」  ぎりぎりまで短くつまれた爪の先が愛おしそうにペンを撫でる。ちょっと嫉妬しちゃいそうね、と女はもう片方の手で彼の指をつついた。笑みが深くなっている。 「でも、凄く素敵。いいね、それ。その書類は形式の為の紙切れだって、そんな一言じゃ片付けられないね」 「そうだよ。文字通り、人生かかってるんだから」  ペンに注がれていたふたりの視線が、ゆるゆると互いの顔に移る。 「覚悟は、決まった?」 「うん」  問いに答えて、彼女は頷いた。とん、と彼の指先がペンを叩いてから離れていく。  それからキャップを外してお尻にはめてから、彼女はもう一度テーブルに視線を落とした。  日差しでぱりぱりになってしまいそうなほど置きっぱなしにされていた紙切れの位置を調節して、真正面から向き合う。  握り直したペンを手にひと呼吸してから、丁寧に最後の記名をしていく。その隣には、隣の彼の名前が並んでいる。  顔を戻した彼女の頬が、薄く赤らんでいた。  そう、あのときから、ふたりは本当の意味で運命共同体になったのだ。  自分たちが来院したときに腰掛けていた人たちが次々と呼ばれるのを見送りながら、ふたりは緊張が高まるのを感じていた。  もうすぐだ。いつかはこうなると思っていたから、覚悟はあるけれど。  カウンターの向こうで、事務員がボードに挟まれた紙を見て首を傾げ、それからもうひとつ手に取り、隣の看護師と囁き合っている。あれに間違いない。 「こうの、まことさん。診察室へどうぞ。ええと、男性の方のこうのまことさん」  わざわざ性別まで告げる呼び掛けに、待合いに動揺が走る。ざわりと揺れる人々の頭越しに、彼は返事をした。視線が集まる。  するとボードを覗き込んだ看護師が、ああという顔で頷いた。 「女性のこうのまことさん、ご夫婦ですよね。よろしければ一緒にどうぞ」  はい、と応じて立ち上がった彼女に、ざわめきはますます広がっていく。  ここで俯いてはいけない。ふたりはきりりと前を向いて、その視線をやり過ごし、不躾な言葉の数々をさらりと弾くようにして歩を進めた。  そう、たまたま好きになってしまった。最初は偶然を驚いて面白がっているだけだった。それから結婚を意識するようになって、初めてその重大な事実に気付いたのだ。  それでも退けなかった。傍にいたかった。不可抗力。事故。そんなものだと割り切ってしまえば些細なことだろうと思う。普段は意識すらしていない。それでも、こういうケースは想定していた。逃れられないハプニングだ。  ふたりにこの名前をくれたそれぞれの両親を、恨むことなどできないのだから。                了
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