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「おい。調子はどうだ」
よく知るぶっきらぼうな声を聞いて、私は編み物を編む手を止めた。
主人が病室の戸の前に立っていた。
「あら、今日も早かったですね。私は今日は少しいいみたい」
「あまり会社にいても嫌がられるからな。もう息子が社長なんだから」
言いながら、ベッドのそばの椅子に主人は腰掛けた。手にはプリンの入った袋。
主人は昔から病人にはプリンだと思い込んでいる。確かに食欲のないときにもつるりと喉を通るプリンの甘さは病人に最適かもしれない。偶然にも私の好物がプリンだということをこの人は知っているかしら。いいえ、きっと知らないわね。
それでも、焼きプリンを選んで買ってきてくれていることに、思わず笑みがこぼれる。私がプリンなら焼きプリンが好きなのは知っているのね。
「雨になったな」
「あら、気付かなかったわ」
一降りごとに季節が進んでいくのに、病院内は温かいのでそれがわからない。
「外は寒くなったでしょう?」
若かりしときより随分と寂しくなった主人の頭を見て、私は止めていた手を動かし始めた。
主人の好きなライトグレー色の帽子。編み終えることができるかしら。
「あなた?」
返事がないので、再び手を止めて主人を見ると、主人は神妙な顔でこちらを見ていた。
「どうかしましたか、あなた?」
主人はぐしっと鼻をこすって、
「お前には苦労をかけてきたな」
とぽつりと言った。
私は思わず口を開けたまま主人を見つめた。
私を労わる言葉など言わない人なのに。
「あらたまってどうしたんですか?」
「お前が倒れるなんて思わなんだ。……俺が悪い」
主人の顔を見ていられなくなって、私は目を伏せた。
この人が弱気になるなんて。
「どうしてそんな」
私は誤魔化すようにふふふと笑って言った。
「俺は若いときから職は転々としたのに、お前をどこにも遊びに連れても行かず、贈り物をするわけでもなく。いつも自分が中心で、お前には迷惑ばかり」
「そんなことありませんよ。あなたといるとまるでジェットコースターに乗っているみたいで。たくさんの夢を見せてもらって、私は幸せでしたよ」
私は小さく首を振って微笑んだ。
それに。家庭を顧みなかった主人が毎日のようにこうして見舞いに来てくれるのだ。
「あなたとここから見る銀杏の樹も捨てたもんじゃありませんよ」
病院の敷地内に植えられた銀杏の樹は、鮮やかな黄色に染まっていて少しずつ散り始めていた。
主人は一度窓の外に目をやり、もう一度私のほうを見た。
「来月はクリスマスだ。何か欲しいものはないのか?」
「ありませんよ。私はもう……」
長くはないのだからと言おうとしてやめた。主人が顔を真っ赤にして仁王立ちになっていたからだ。
「……お前は昔からそうだった。欲がない」
主人の声はどこか寂しそうだった。
確かにそうかもしれない。
でもいいのだ。一番一緒にいて欲しい人はこうして今隣にいる。結局、なぜ私と一緒になってくれたのかはわからないままだけれど。
苦労はあった。でも悪い人生ではなかった。
ただ、そうね。欲を言うのなら。
認められたい。
それが私の小さな望みだった。幼いときから褒められずに育った。結婚してからも。
私は私でいいのかいつも不安だった。
でも、もう今さら。
そう思って、諦めにも似た笑みを浮かべたときだった。
「本当にお前は俺には出来すぎた女房だ。お前が我慢強くいつも俺について来てくれたこと、感謝している」
主人が真っ赤な顔のまま言った。
ああ。
鼻の奥がつんと痛くなって、私は慌ててティッシュを手に取った。
報われたと思った。
私は馬鹿ね。長年連れ添ってきて、この人のなにを見てきたのかしら。
そう。この人は言葉が足りない人だった。けれど決して冷たい人ではなかった。誰よりも私が分かっているじゃないの。
私はこの人と生きてきてよかった。
「あなた、ありがとう。今、人生で最高の贈り物を頂きましたよ。他には何もいらないわ」
私は溢れ出した涙を拭いながら言った。
「本当に欲のない女だな、お前は。……早く、元気になってくれ」
そう言う主人の目にも涙が光っていた。
「はい……」
この人をひとり遺して逝くわけにはいかないわね。
私は再び編み物の手を動かし始める。
本格的な冬になる前にこれも編み終えましょう。
私はまだこの人と生きていく。
了
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