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がちっと、小さな見た目に似合わない鈍く錆びついた音がして、鍵が外れる。
並んだ番号は、初めて教えたあと、一度も聞き返されなかった自分の誕生日。
それが設定された鍵を外しててのひらに包み、そっと目の前の箱に目を移す。
たまたま見つけた、おしゃれなベージュの木の箱。蓋に積もった灰色を優しく指先で撫でてみると、埃はとれるがあせた色は戻らない。
『これを宝箱にしようと思ってね、ここに大切なものを全部いれておくんだ。子どもに戻ったみたいで、わくわくするだろう?』
皺が刻まれた顔に無邪気な笑みを浮かべ、少年のように嬉しそうに、この箱を抱えながら笑っていた。
見ているだけで、こっちまで胸が弾んで、まだ何も知らなくて、何でも見えていた少女の頃に戻ったようで。
黙って、蓋を開けた。
あの人のことだから、子どもみたいにお菓子のおまけやらビー玉やらをしまいこんでいるのではないかと思ったけれど、中に入っていたものはそんな予想を軽く裏切った。
端のすり切れた、一枚の、古ぼけた紙。
折りたたまれて、少し黄ばんで、時間を止められている。
あの人の笑った顔と同じように、しわくちゃな指先で、かさりと紙を手に取った。懐かしい感触がした。
やわらかく、ざらついた、ほころびかかったひときれの紙。
それがなぜか、あたたかい小さなメモ用紙や、ふるふると指先に馴染む便箋や、つるつるのひんやりしたボードや、薄くかたい付箋のように感じられる。
今まで何度も交わして触れてきた、手探りで手作りの、文字の手触りがある。
愛用している紙ではないし、そもそも触ったことがあったかすら曖昧な紙質なのに、不思議と「ああ、これだ」と思う。
ふふっと小さな声で唇を震わせて、笑い声混じりに「久しぶりね」と言ってしまった。
箱に閉じ込められて冷えた紙から、確かな温度が伝わってくる。ああ、そうだ、懐かしい、覚えている、憶えている。
昔はちょっとした紙や少し高い便箋に、そして年を経てからは付箋や、スーパーで買った小さなホワイトボードに、いったい何十回、何百何千、言葉を刻んできただろう。
目を細めて、ひだまりのなかにいるような、ほんのりとお日様の匂いがする気持ちに、しばらくゆらゆら浮いてみる。
ふっと息を吸い込むと、箱の中からたちのぼったに違いない、古くて優しい埃の匂いがした。
かさかさと、四つ折りになった紙をてのひらで開く。
見慣れた文字が並んでいた。
濃く、強く、愛しむように。
「土産話、待ってる」
それだけ。たった、それだけだ。
もうずいぶん聞いていない、あのしわくちゃでキラキラした声が、そのまま脳裏に蘇った。
とたん、どうしようもない海が、胸の中でぶわりと息づいた。
静まり返っていたはずの、広い、果てのない海が、大きく鼓動して、ゆるやかに波を形作って、体中を巡る。
瞳の裏で、熱くきらめく。
「なん、」
で、なのか、て、なのか。それとも、それ以外か。
続く言葉は海に呑み込まれて、透明に透けて紙へ落ちてしまった。
ぎゅっと、手が紙を握り込む。果てしなく柔らかいその紙を、同じようにしわくちゃにする。
多分この人は、自分がいなくなったあともをこの世に引き留めようとか、そういうことは微塵も考えていない。
本当に、ただただ素直に、本心から言っている。
楽しみにしてる、でも、多いほうがいい、でもなく、ただ待ってると、それだけ書かれていればきっとあの人には十分で、そして二人にも十分すぎる。
土産話。あの人がいなくなった世界で、そんな、向こうで楽しんで話せるような、こんなことがあったと笑えるような、美しいもの、あるいは楽しいものが、見つかるだろうか。
なんとはなしに窓の外を見つめる。
「……肌寒いですね」
ぽつりと、どこかで聞いた一説がほころび出る。
ああ、本当に、私は。
「……あら」
雨なんて、降っていただろうか。まったく気づかなかった。
いつの間にか薄暗い空に、うっすらと、虹がかかっている。
また、思わず涙が生まれる。
「きれい」
言葉を覚えたての幼子のような、つたない響きのその言葉。
「虹が、綺麗ね」
ああ、綺麗だ、と。すぐそばで聴こえた気がするのは、うぬぼれすぎかもしれない。
だけど確かにあの日、あの人は言ってくれた。
二人で見る虹は全部綺麗だ、と。
それなら。
それならば。
まずは一つ目の土産話にすべく、どこかに旅行にでも行ってみようか。
どこにいったっていい。行先はどこでもいい。ただ、あの人が笑ってくれるのを想像するそれだけで、こっちはなんだって楽しめてしまうのだ。
こんなことがあったよと、どんな些細な報告だって、きっと微笑みながら聞いてくれる。
どんな小さな発見だって、細めた目を輝かせてうなずいてくれる。
それなら私は今日もあなたがいないこの美しい世界を、生きていけるのだ、きっとずっと。
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