そこにはもういない。

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 音のない世界に住む老犬は、一日の大半を眠って過ごしていた。  耳が聞こえなくなってからというもの、玄関に迎えに来ることもなくなった。  犬は鼻が利くと言われるが、やはり感覚の多くは目と耳に頼っているのだろう。  眠っているそばに座り、そっと背中をなでる。  やがて眼を開くがその瞳は曇り、おそらく光をかすかに感じるぐらいしかできなくなっている。  そして立ち上がろうとするがもうその力もない。  毛並みの滑らかさも失われ、みすぼらしくさえ見える。  だがほとんどの感覚が閉ざされている今でも、自分の家族のことはわかるのかもしれない。  支えてやると立ち上がりこちらを向こうとする。  私は姿勢を低くして老犬の首に手を回して抱きしめる。  背中をゆっくりなでる。  どのくらい経ったのか、老犬は自分の足の力を抜く。  体重が私にかかる。  疲れたのだろうか、満足したのだろうか。  支えながらゆっくりと横たえさせる。  再びゆっくり背中をなでる。  すぐに目が閉じる。  呼吸が穏やかになる。  眠ったようだ。  やがて一週間が経ち、老犬の命は終わった。  かつて老犬が好きだったものを周りに並べて別れを告げる。  老犬が喜ぶかはわからない。  命の終わったものは少なくとも何も反応しないのだから。  後悔がないかといえば、少なからずある。  何かもっとできることがあったのではないかとは思う。  老犬には後悔はあっただろうか?  それはわからない。  だから今はもう祈るしかない。  それは神とか魂とかそういったものへではなく、もはやどうすることもできない過去に対してだろう。  ただただ、ここで与えられた時間が幸せであったことを祈る。  それからまた時間が経ち、かつて老犬がいた場所が空いていることに慣れてきたときにまたふと気がつく。  毛並みのなめらかさや体温の暖かさを手が探していること、そしてそこにいない老犬の背中を撫でるように動くことを。  老犬はもうそこにはいない。  だが多分、ここにいる。
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