08.白い記憶

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08.白い記憶

 私はどこで道を誤ったのだろう。  平凡な家庭で育ち、両親にも愛されて生きてきたと思う。べつに変な趣味とかグレた友達も居なかったし、性格に大きな欠点があったとも思えない。自分が気付いていないだけなのかもしれないけれど。  初めて彼氏が出来たのは大学四年生の時で、舞い上がって母親に報告したことを覚えている。暫くは毎日が本当に輝いて見えて、単純な私は将来の絵空事まで描いていた。しかし、若い頃の恋愛によくある話で、その時の彼氏とは連絡が取れなくなって自然消滅した。  今思えば『仕方がない』で済ませる話も、当時の私にとっては大ショックだった。それから何人かと付き合ったけれど長続きはせず、自分に何か問題があるのではないかと思うようになった。そんな時に出会ったのが、元恋人だったのだ。  友達に勧められて利用登録したマッチングアプリは思いのほか使いやすく、街コンのように無駄な投資がない分、楽だと思った。元恋人とはマッチしてから何度か遊ぶうちに意気投合し、名古屋と東京という遠距離ではあるけれど会えない時間は電話をしたりして心は繋がっていると思っていた。  手を上げられたことは、一度もない。  だから友達に相談したこともなかった。  ただ、彼はお酒を飲むと少し言葉が荒れて、私のことを少し蔑んだような発言をするだけ。酒気が抜けると必ず謝ってくれるし、普段の彼は優しかった。物を投げることはあったけれど、彼を怒らせた自分に原因があるのだと泣きながら反省して謝罪を繰り返した。  暴力なんかじゃない。  やめてと懇願しても、耳を塞いでも続く罵倒に耐えかねて、部屋を逃げ回るうちに腕や脚を色々なところにぶつけた。何度かは彼から押されたこともあったかもしれない。嫌な記憶には蓋をしてしまうから、あまりよく覚えていない。  それでも毎回会えば抱き合って眠ったし、そういった暴言を吐いた後でも彼は私を求めてきた。だから、私はそれを愛だと思っていたし、愛であってほしいと願っていた。  婚約を破棄された、あの日までは。 「………ん」  目が覚めてあたりを見回す。机の上には閉じたノートパソコン、ベッドに隣接したサイドテーブルには読みかけの本と水の入ったグラス。ここは須王白秋の部屋だ。  慌てて服装を確認するも、私は昨日お風呂上がりに着た色気のないパジャマ用のだるんとしたワンピースを着ていて、下着も着けたまま。そもそも彼も私の相手をするほど不自由はしていないだろうと胸を撫で下ろす。  赤ワインを飲みながら質問攻めに遭い、泣き出してしまったことは覚えている。大の大人が5つも年下の男に泣かされるなんて、素直に恥ずかしい。べつに怒鳴られたわけでもないし、彼は笑顔で聞いてきただけなのに。  そこまで考えて、思考を停止した。  私はどこまで彼に話したのだろう。過去のことをすべて話したのだろうか。知られて困ることはないけれど、できれば知らないでほしいことが多い。この一週間の住み込み生活が終われば私たちは他人に戻るのだ。これ以上、彼と何かを共有して弱みを握られたくない。 (………弱み?)  否、弱みなんかではないはずだ。私は被害者じゃない。他人に恥じるような恋愛はしていない。確かに既婚を黙っていたことは許せないけれど、それ以外はいたって普通の相手だった。ただ、私がうまく合わせられなかっただけ。  頭の中がぐちゃぐちゃになって来たので、ベッドから降りて部屋の主を探すことにした。  今が何時なのかは分からないけれど、差し込む光は明るいから朝か昼のようだ。リビングまで出て行くと壁に掛かった時計は11時を少し過ぎたところだった。私はベッドの真ん中で寝ていたけれど、白秋はどこで眠ったのだろう?  お風呂を覗くも、居ない。これは先に家を出たなと思いながら再びリビングに戻って冷蔵庫を開けたら、メモが貼りついた箱を見つけた。小さなメモ用紙には『真さんどうぞ』と書かれており、幼稚園児が描いたような絵で涙を流す女の子の姿が描かれていた。 「………これ、私?」  一人きりのリビングに声が消えていく。  堪らなくなって笑ってしまった。達筆な文字とは裏腹にあまりにもセンスがある絵だったから。コピーしてTシャツにしたいぐらい味がある。  小さなメモをそっと取ってポケットに仕舞った。箱を開けると中には美味しそうな苺のショートケーキが入っている。  須王白秋が朝からケーキを買いに行ったのだろうか?そうだとしたら、私は彼との距離を縮めることに成功したと言えるだろう。また少し噴き出しながら、ありがたくケーキをいただくことにした。  久しぶりの糖分が心に染みわたる。
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