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第22話 「出会い……」
無常にもクラリスの命は、チェイスを待ってはくれなかった。
精一杯尽くしてきたが、クラリスはチェイスの気持ちを受け止めることなく、24歳という短い生涯を終えた。
クラリスを健康にしようと、別邸の皆も頑張ったが、長年の虐待は、既にクラリスの体を蝕んでいた。
ノースウッドもチェイスも気力を失い、火が消えたように消沈した。
社交界では、結婚後一切姿を見せなくなったクラリスは、幽閉されているのでは?と憶測する人も多かったが、ノースウッドとチェイスが、クラリスを溺愛しているような報道に、戸惑っていた。
体が弱く舞踏会に参加できない、というチェイスの言葉を、クラリスの若すぎる死が、裏付けることになった。
そして、チェイスは女王でも眠っているのかというほど壮麗な墓廟を建て、新聞を騒がせた。チェイスがクラリスを、心から愛していたという裏付けにもなった。
クラリスが亡くなってからというもの、チェイスはクラリスが1番好きだった、ジョナサンのチョコレートケーキを持って週に一度、墓廟を訪れるのが日課となっていた。
墓廟は邸宅の敷地内にあり、春になると必ず、チェイスとクラリスが一緒に訪れていた場所だ。
ブルーベルが群生するその場所は、春になると、まるで青い花のカーペットを敷いたように壮観だった。
3度目の命日を迎えたこの日も、いつものようにセオドアを連れ、墓廟へ向かっていて、チェイスは事故に遭った。馬車の車軸が折れて横転したのだ。
叩きつけられると思い身構えたが、チェイスの体は叩きつけられることなく落下した。
道に崖は無いのだから、体が落下するなんてことはあり得ない。きっと横転した衝撃で、頭を打ってしまい、幻覚でも見ているのだろうと思った瞬間。パチリと目を覚ました。
ガバッと起き上がると、そこは、チェイスの寝室だった。
事故に遭ったが、どうやら無事だったようだ。手足を動かしてみて、痛むところがないか確認したが、どこも痛くはなかった。
「おや、今日は、お早いお目覚めで、昨晩も遅くまで仕事をされていましたから、まだ寝ているだろうと思っていましたよ」
チェイスは声のする方へ視線を向け、自分の目を疑った。「ブランドン?」
「ええ、ブランドンですよ。まだ寝ぼけておいでのようですね。濃いコーヒーを、お淹れしましょうか?」
「……若返ってないか?」
「何を言いますか、もう51にもなるのですよ、今更若返ったところで、中年に変わりはありませんよ」
「51?今年61だろう?」
「何の冗談です?突然10歳も老けさせないでください。私は51、貴方は22でしょう?おかしな夢でも見たようですね。本日は王室主催のパーティーなのですから、しゃきっとなさいませ」
「王室主催?」
「お忘れですか?王女様の初聖体拝領のお祝いなのですから、盛大なものとなりましょう。失敗は許されませんよ」
「そんな、嘘だろう……」チェイスはバスルームへ駆け込み鏡を見た。確かに鏡に映る顔は、22歳の青年の顔だった。だが、ついさっきまでは、愛妻に先立たれ、憔悴した32歳の男だった。
チェイスの頭は混乱した——これは夢か?
何が何だか分からず、午前中をぼんやりと執務室で過ごし、パーティーへ行く準備を始めたところで、重大なことに気がついた。
(王女の初聖体拝領の祝いと言えば、クラリスに懸賞金がかけられたパーティーだ!)
チェイスが犯した最初の過ち、この日チェイスは、クラリスを心無い言葉で嘲笑った。これが現実なのかは分からないが、会場のどこかでクラリスは怯えて、あの痩せ細った体を震わせているのだと思うと、チェイスの顔から血の気が失せた。とにかくクラリスを助けなければと思い、会場へ急いだ。
あの日クラリスが着ていたドレスは何色だっただろうか、どんな髪型だっただろうかと思い出そうとしたが、ぼんやりとしていて思い出せない。
早く見つけなければと焦るあまり、嫌な汗が背を伝い落ちた。なぜ覚えていないのだ、役立たずめと、チェイスは自分を罵った。
大勢の出席者の間を縫って、クラリスを探すチェイスの耳に、懸賞金の話が届いた。
過去に戻ったこの状況を把握できていないのだから、たとえ、過去にクラリスが、この胸糞悪い懸賞金レースから逃げ切っていたとしても、今回も逃げ切れる保証はどこにもない、クラリスに何かあったらと思うと、チェイスは体が凍りついた。
いつだったか、クラリスが話してくれたことがある、パーティーの最中は、侍女や女中が総出で駆り出される。そのため、彼女たちが暮らす、女の使用人用に建てられた棟は、もぬけの殻になる。使用人棟のキッチンには食べ物もあるし、いい隠れ場所だった、と言っていたことを、チェイスは思い出した。
チェイスは使用人棟に急いだ。間に合ってくれと願いながら、誰にも気づかれないよう慎重に。
キッチンを覗くと、黒いドレスを着た女性が、パンを口に押し込んでいた。
チェイスはそっと中に入り声をかけた。「クラリス?クラリス・ノースウッド公爵令嬢?」
その声に驚いたクラリスは、咄嗟にしゃがみ込んで身を隠した。
「怖がらないでくれ、私はチェイス・カヴァナー、ベレスフォード伯だ。君に懸賞金がかけられていると知って助けにきた。決して危害は加えないと約束する。近寄ってもいいだろうか?」
返事はなかったが、チェイスはクラリスの方へ、にじり寄った。追い詰めたくは無い、しかし、クラリスは目が悪い。視界に入らなければと、チェイスは慎重にクラリスに近づいた。
「やあ、話すのは初めてだよね。私もここに座っていいかな」チェイスはクラリスから少し離れたところに腰を下ろした。「ほら何も武器は持ってないだろう?だから安心して、君を助けに来たんだ」チェイスは手を、ひらひらとクラリスに向けて振ってみせた。
クラリスは訝しむようにチェイスを見た。
「王室のパーティーなんて、面白い催しもないし、古臭いから退屈だよな。ここに隠れて正解だ」
黒いベールで顔が覆われていて、クラリスの表情は見えない。クラリスの顔色の悪さを隠すために、侍女がかけたのだろうと思うと、はらわたが煮えくり返るような怒りが込み上げてきた。
「私のことはチェイスと呼んでくれ、君のことも、クラリスと呼んでいいかな?」
クラリスは微かに首を縦に動かした。
「ありがとう。クラリス、私は君と友達になりたいんだ。友達になってくれるかい?」
クラリスはまた、こくりと頷いた。
「嬉しいよ、クラリス。君は自分を悪魔憑きだと思っているって聞いたんだ」
立ち上がり、逃げ出そうとしたクラリスにチェイスは慌てて言った。
「君は悪魔憑きなんかじゃない!私の話を聞いてくれ、私は君が悪魔に取り憑かれているとは思わない。君を傷つける奴らから守りたいと思っている。どうか私から逃げないで、私の手を取ってくれ」
チェイスはクラリスに手を差し出した。
「エンディコット城から連れ出すよ、今すぐに。2度と戻らなくていい」
クラリスは彼の背後に、女神を見た気がした。琥珀色の瞳をした美しい女神を。
彼は女神に遣わされた天使なのかもしれない、この手を掴めば、悪魔を追い払えるかもしれない——クラリスは手を伸ばし、チェイスの手を、震える手でしっかりと掴んだ。
fin
*あとがき*
傷つけられたクラリスが、周りに支えられ、少しずつ救われていく様を、レイチェルやチェイスやノースウッドの視点で書きました。
過去と向き合い、前を向いて生きることは誰にとっても難しいことです。虐待されたクラリスは、一生その傷を引きずって生きねばならないのでしょう。忘れることなど不可能なのですから。
以前ひったくりの被害に遭い、しばらく出歩くのが怖くなってしまった時期がありました。常に後ろを振り返らずにはいられませんでした。
大人の私でも、たった数秒の恐怖が、しばらく忘れられずにいたのですから、それが何年も続けば、幼い子は一生を狂わされてしまうほど、恐怖から抜け出せなくなってしまうのでしょう。
虐待が発覚して、暗闇から助け出されたクラリスですが、そこで終わりではないのです。そこから生涯をかけた苦悩との闘いが始まるのです。
ダグラスはチェイスの前でクラリスのことを『奥様』と呼びますが、レイチェルは『クラリス様』のままです。そのことに、レイチェルがチェイスをクラリスの夫と認めていない、という意思が表れている気がします。
そして、やはり私は強い女性というのが好きなのだなと感じます。レイチェルに惹かれずにはいられません。
逆にチェイスのような人は、好きになれません。過去に自分を誹謗中傷した人が謝罪してきたら、許しはするでしょうが、その人の本質が変わらないかぎり、絆されることはないだろうと思います。
2度目の人生が始まったチェイスですが、彼にとって、人生最大の試練となります。今度こそ、クラリスの心を射止めることができるといいですね。
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
枇杷 水月
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