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第4話 「切望」
クラリスは暇があれば——と言っても、クラリスには、友達もいなければ、趣味もない。部屋を出ることさえ、許されなかったのだから、痛みに悶えるか、寝ることくらいしかすることがなく、毎日、時間を持て余していた。そんなクラリスに、楽しみを与えてくれたのは本だった。
エンディコット公爵邸にいたときは、『みにくいアヒルの子』という童話しか読んだことがなかったが、クラリスにとってその本は、現実から逃避するための、唯一の手段だった。本を読んでいるときは、いつかは、自分も愛される存在になれると、信じられた。
レイチェルが連れてきてくれた図書室には、一生かかっても読みきれないほどに、たくさんの本があって、クラリスは心が躍った。
「奥様は、どんな本が好きですか?」レイチェルが訊いた。
「『みにくいアヒルの子』です」クラリスは、おずおずと答えた。
子供が読む、童話のタイトルを言うとは思わず、レイチェルは意表を突かれたが、物語が好きなのだろうと理解して、クラリスに物語を数冊勧めた。
レイチェルから、勧められた本を手にしたクラリスは、微笑んで言った。「ありがとうございます」
レイチェルは、クラリスを追い詰めないよう、できるだけ優しい声で言った。「私はクラリス様の侍女ですから、敬意を表する必要はありませんが、丁寧な言葉遣いの方が、喋り易ければ、そのままで構いません。ですが、たとえ奥様が、我々に気安く話しかけたとしても、咎める者はいないと、気に留めておいてください」
「——はい」
「いつか、奥様が我々に、心を開いてくれる日が来ることを、願っています。この屋敷にいる使用人たち、全員の願いです」
レイチェルが言ったことは、嘘ではなかった。庭園に行くと、庭師のジェイクが花を摘んでくれて、クラリスにプレゼントしてくれた。
生まれて初めて花を貰い、喜んだクラリスは、レイチェルが花瓶に生けてくれたその花を、夜遅くまで、観察するように眺めて過ごした。なぜなら、クラリスはその日初めて、花を間近で見たからだった。
雨が降っても、風が吹いても、植物たちは凛々しく立ち続ける。どうしたら、苦境や逆境に晒されながらも、へこたれず、しなやかに立ち続けることが出来るのだろうかと、クラリスは不思議に思った。
翌朝、その話は厨房にも伝わった。伯爵夫人に話しかけるのも、憚るような身分の庭師が渡した花を、クラリスがとても大事にしているらしいと知り、使用人たちは感心した。
コックとして雇われたジョナサンは、優しい主人が、痩せ細っているなんて、コックとして面目が立たない、クラリスの体に、肉をつけさせなければと、腕を振るった。
コテージパイや、ラズベリーのアーモンドケーキ、平民でも口にしたことがあるような単純な料理にも、クラリスは、毎回ご馳走のように目を輝かせた。
そんな姿に、別邸の使用人たちは、胸が詰まった。
クラリスは夫から見向きもされず、離れで静かに暮らしていたが、ここに来てからというもの、それはそれは平穏な毎日で、得たことのない幸せに、クラリスの心は満たされた。
毎日、花を摘んでくれるジェイク、毎日、美味しいご飯を作ってくれるジョナサン、クラリスを気にかけてくれる優しいダグラスと、頼りになるレイチェル、彼らのお陰で、クラリスは少しずつ、使用人たちと打ち解けるようになっていった。
使用人たちもまた、クラリスの優しく、愛らしい心に、惹かれていった。
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