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09.日曜日
一緒に暮らしているとは言っても、一日のほとんどは擦れ違いだった。
僕が帰る頃にジュディは仕事へと繰り出す。最初のうちは「起きていたら会えるかもしれない」と期待していたけれど、朝方に帰宅して摺り足で寝室へ向かう彼女の足音を聞いていたら、とてもじゃないけれど話し掛ける気にはなれなかった。
おかえりの挨拶をする時間すらきっと勿体ない。彼女が働いている間、いったいどんなハードな時間が流れているのか僕は知らないけれど、きっとそれは想像を超えている。
それでも涙を見せず、ジュディは僕の前でいつも笑顔だった。少なくとも、知りうる限りは。
「先生は黒が好きなんですか?」
珍しく休みが合った日曜日、いつも黒い服ばかり着ているジュディを不思議に思って僕は問い掛けた。サラダを咀嚼しながら少し考える素振りを見せて、ジュディは口を開く。
「弔いよ、ただの自己満足」
「弔い……?」
「ベンシモン…夫の最期を私は看取れなかった。独りぼっちで死んでしまったの。せめて私だけは憶えていたい…」
彼の存在を、と小さく続けるから驚いて僕は目を見開いた。
ジュディはあろうことか、あの悪魔の手先のような男の死を忘れまいとしているのだ。幼い子供を手に掛けて、巧みな話術で売春へと誘い、死に際には「命の代わりに妻を差し出す」と言ってのけたあの男を。
美しい茶色の双眼が節穴であることは誰よりも理解しているつもりだったけれど、まさか借金を隠し持っていた旦那のことを死後も想い続けるとは思わなかった。
つまり彼女は、死んだ夫のためにすべての色を捨てて喪に服しているのだ。
「……良い話ですね。死後も尚、献身的だ」
「献身的なんかじゃないわ。何も出来なかったもの」
「………?」
「こんなに借金を抱えて頑張っていたなんて、知らなかったの。相談もせずに、きっと悩んでたはずよ」
「でも、貴女は…その借金のために身体を売ってる」
「……私にはこれぐらいしか出来ないから」
そう言ってジュディは寂しそうに笑った。
どうしてそんな風に考えられるのだろう。喜ばしくないプレゼントを遺して死んだ夫を、生前には何の相談もされていなかったことを、なぜ恨まないのか。
これが彼女の愛だと言うなら、僕はその細い肩を揺らして「正気か?」と問いたい。本音を言えば、すべて白日のもとに晒して、真実を伝えたいところ。だけれど、さすがの僕でもそれは出来なかった。
彼女の憎しみの矛先が、自分に向くことが怖いからではない。仮にも妻という立場にあって五年の歳月を連れ添った相手を亡くした彼女に、その死因が違法風俗へ手を出したからだと伝えることがどんなに残酷か。
それぐらいは僕でも容易に想像できたから。
「ヴィンセントくんは?」
「はい?」
暗い雰囲気を掻き消すような明るい声音に顔を上げた。
ジュディはコーヒーの入ったマグカップを手に持ったまま、僕の方をニコニコと見ている。僕は黙ってその形の良い唇から出てくる言葉を待った。
「彼女は居ないの?」
「……居ませんよ」
「うーん怪しいわねぇ、貴方モテるはずなんだけど」
「そう見えますか?」
彼女が自分の容姿に対して何らかの良い印象を持っていたことに素直に驚いた。虐められっ子の可哀想なヴィンセント・アーガイルという普遍のレッテルとは相性は悪そうだけど、彼女の目に僕はいったいどう映っているのか。
「ええ、大人っぽくなったと思う」
ふふっと軽やかに笑うジュディを見て、僕は今なら気持ちを少しぐらい伝えても良いのではないかと一瞬思った。この雰囲気ならば、問題ないのではと。
しかし、淡い期待を打ち消すような言葉が続いた。
「夫が見たらきっと驚くわ。彼も貴方のことを気に掛けていたから。ほら、結婚式で紹介したでしょう?」
「………そうでしたね、はい」
曖昧に返事をしながら僕はすっかり温くなったコーヒーを流し込む。いつもは角砂糖をたんと入れるけれど、今日は大人ぶってブラックにしてみた。
こんなに苦いなんて、舌がおかしくなりそうだ。
「先生は本当に旦那さんを大切に思っていたんですね」
「ええ。彼は、私の最愛だったから」
地獄で高らかに笑うベンシモンの声が聞こえる。
僕の愛する人は、今日も亡き夫を想っている。
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