【前日譚】彼女はまだ本当の恋を知らない 前編

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【前日譚】彼女はまだ本当の恋を知らない 前編

 僕が初めてジュディ・フォレストに出会ったのは、たしかアカデミーに入学して半年が経った頃。僕はまだ十六歳で、ジュディは教師の免許を取ったばかりの新米だった。  焦茶色の髪を一つにまとめて高い位置でお団子にした彼女は、服装もシンプルで「教師らしく」あることに固執しているような真面目ぶった喋り方をしていた。若い生徒たちは自分たちと年がそんなに変わらない彼女を揶揄うこともあったが、概ね歓迎しているようだった。  その頃の僕は家の事情もあって、学業どころではなかったから、あまり良い生徒ではなかったと思う。留年しない程度のギリギリの出席日数をキープして、幽霊のように進級して行った。  ジュディがそんな僕のことをどう考えていたかは知らないけれど、僕にとってジュディはあくまでもただの担任で、三者面談で一方的に自分の意見を熱弁するパターン化された教師の一人だった。  アカデミーを卒業する年度になって、事件は起きた。  学校にはほとんど通わず、主要なイベントにも全く顔を出していなかった僕だけど、なんとか卒業は可能ということで、その日も呑気に早退をキメていた。なにぶん暑い夏の日だったし、監獄みたいな学校でダラダラ時間を過ごすよりも、家に帰って祖父とボードゲームでもしている方が有意義だと思ったから。  急ぎ足で構内を歩いていると、昔馴染みの女の子に声を掛けられた。自分で言うのもなんだけど、アカデミーに上がる少し前から僕の身長はグンと伸びて、母親に似た容姿のお陰で女性関係は潤っていた。お陰様で男子学生が思い悩むような性の悩みも一通り早い段階で解決していたし、この頃から今と同じような付かず離れずの状態にある女の子が何人か居た。  彼女たちと会うのはだいたい学校の外だったから、同じクラスの人たちはロクに声も聞いたことがないヴィンセント・アーガイルという男が、こんな爛れた性生活を送っているなんて見当も付かなかったはずだ。  急いでいると伝えると、制服を着崩した彼女は「良い場所があるの」と言って僕を空き教室へ連れ込んだ。  気は進まなかったけれど、とにかく僕も若かったし、据え膳を食わないほど賢者でもなかったので有り難く頂くことにした。蛇足になるけれど、食った膳はまぁまぁ美味かった。少し元気が良すぎるというか、煩かったんだけれど。  適当に行為を終えた後、さてそろそろ帰ろうかとズボンを上げようとしたところで教室の扉が開いた。 「………え?」  そこに立っていたのはジュディ・フォーレストだった。  お馴染みの団子頭に、教員用のバインダーを抱えている。  ジュディは僕たちの姿を見て、目を丸くしたまま固まってしまった。仕方がないことだろう。僕のズボンは足元までずり下がっていてほぼパンツ姿、加えて言い訳出来ないのが机の上に伸びた女だ。彼女はシャツの胸元をおおっ広げて、紺色の靴下を履いた両脚を大きく開脚していた。  つまり、どう見ても事後。 「ヴィ…ヴィンセントくん?」 「あーーこれは、」  なんて言い訳しようかと頭を掻く僕の前で女の子はバタバタと荷物をまとめて教室を出て行った。あまりの早技にジュディも呼び止めることは出来なかったようだ。  せっかくこのまま問題なく卒業出来るところだったのに、と悔やむ気持ちを噛み締めて、停学になるおおよその日数を頭の中で見積もる。暴力沙汰ではないけれど、完全なる風紀違反。未成年という便利な枠に属しているので、犯罪なんかにはならないと思うが、親代わりの祖父にまで連絡が行くことは容易に想像できた。  謝罪が先か、言い訳が先か、と思いながら顔を上げると、なんとジュディは涙を浮かべていた。  泣くほどショックなことなのだろうかと考える。まぁ、たしかに自分の受け持つクラスで不純異性交遊にうつつを抜かす問題児が居ると判明すると後々面倒にはなるだろう。  しかし、ジュディが口にしたのは信じられない言葉だった。 「………今まで…辛かったでしょう?」 「え?」 「脅されていたの?男の子が女の子を襲うっていうのはよく聞くけれど、大人しいヴィンセントくんのことだから、こういう逆のパターンもあるのね……」 「いや、えっと……これは……」 「大丈夫。先生に任せて!相手の子はどのクラス?」  どうやらジュディは都合の良い彼女なりの解釈で、僕が女の子に襲われたと思っているようだった。今考えてもかなり無理のある設定で、お互いの言い分も聞かずに彼女にすべての罪を背負わせることは教師としての判断力に欠けることだろう。  だけど、停学を喰らって卒業が延びるのは御免だ。  したがって僕は、ジュディ・フォレストという女神の勝手な理解に乗っかることにした。出来るだけ悲痛な顔を作って目線を下に向ける。頭の中で身の毛もよだつ気持ち悪い害虫の姿を想像すると、良い具合に声は震えた。 「………すみません、僕、断れなくて…」 「怖かったわね。もう大丈夫だから…」  そう言ってジュディは、その柔らかな手を僕の背中に回して抱き締めた。香水なのか、柔軟剤なのか、爽やかな石鹸のような香りが鼻腔をくすぐる。  これが僕がジュディ・フォレストに落ちた瞬間。  単純だなんて馬鹿にしないでほしい。  なんて言ったって、それは僕が十八年生きてきた中で初めて他人から無条件で信用された瞬間だったのだ。正確に言うとこの場合は彼女の明らかな判断ミスなのだけれど。  とにかく、この日からジュディは僕の世界の中心になった。相変わらず学校に来る頻度は低かったが、それでも以前よりは上がった。アカデミーに費やした三年間はクソみたいな時間だと思っていたけど、ジュディに出会うためだったと思えば大いに価値はあったと思える。  僕はたぶん狡い人間なんだろう。  でも、それで良い。その評価を喜んで受け入れる。
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