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【前日譚】彼女はまだ本当の恋を知らない 中編
「あら…まだ残っていたの?」
目覚ましにしては上質な声が鼓膜を揺らす。
いつだったか、放課後にテスト明けの疲れで眠っていたら夜になっていた日のこと。馴染めていないクラスの生徒たちが居残る僕を起こしてくれるはずもなく、気付いたら窓の外は真っ暗だった。
教室の入り口に立ったジュディは慣れた手つきでパチンパチンと電気のスイッチを押す。急に明るくなった視界に僕は瞬きを繰り返した。
「ヴィンセントくんじゃない。お勉強?」
「すみません、寝てました」
「ははっ!正直で良いわね」
太陽みたいに笑って彼女は持っていた書類を机の上に置いた。片付けが苦手なジュディの机の上には今日もくまの人形やチョーク箱なんかに混じって色々な本が並んでいる。
そこにある本をすべて読んだら彼女が僕と一日デートをしてくれると言うなら、僕は死ぬ気で読む。なんなら暗記したって良い。先生と一日中過ごせるとしたら、という安い妄想だけで自然と笑みが溢れるぐらい僕は彼女に夢中だった。
身体で結ばれなくても、こんな幸せを感じることが出来るなんて、やはりジュディ・フォレストは女神なのではないかと思う。言葉を交わすだけで心臓がくすぐったくなるし、同じ空間に居られるだけで夢みたいだ。
女の子の肌は、柔らかくて気持ちが良いけれど、先生が相手ならば例えプラトニックな関係であっても良い。我慢強い方ではない僕でも、彼女のためなら待てると思う。そういうプレイだと考えればまた別の喜びも見出せるし。
「先生、僕、この学校に入学して良かったです」
「そう言って貰えると教師冥利に尽きるわ。ヴィンセントくんも卒業が近いし、寂しくなるわね」
「卒業式には参加するので、」
「当たり前よ!最近は大丈夫?嫌なことはされていない?」
どういうわけか、あの日を境に先生の中の僕のイメージは「可哀想な虐められっ子」で固定されたらしく、彼女は僕を見つけては時折こうして確認してくるようになった。もしかすると、クラスに馴染めずに友人も少ないことが、そのような偏見を生んだのかもしれない。
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
笑顔で答えると、先生はホッとしたような顔をした。
可哀想なヴィンセント・アーガイルが肉食系の女子の餌食になっていないと知って安心したのだろう。
僕がこの気持ちを明かせば、彼女は困惑するだろうか?
たまに浮き上がってくるこうした小さな疑問は、深く考える前にいつも頭の奥に沈めるようにしている。アカデミーを卒業するまでは僕は完全に彼女の生徒だし、教員として生きる先生を困らせるような真似はしたくなかった。
「ジュディ先生、さようなら」
「さようなら。気を付けて帰ってね」
へらりと笑う彼女の笑顔が視界から消える瞬間まで、心臓は焼けるようにチリチリ痛んだ。
間抜けな僕は知る由もなかった。
この時には既に先生には婚約者が居て、最近どことなく嬉しそうな理由は、彼女たちが共に生きる計画を少しずつ進めているからだってこと。
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