【前日譚】彼女はまだ本当の恋を知らない 後編

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【前日譚】彼女はまだ本当の恋を知らない 後編

 卒業式は一人で参加した。  高齢の祖父に、そんな人混みへ来てもらうことは気が引けたし、思い入れのないアカデミーを見せる必要もないと思ったので。  胸に花を付けた卒業生たちが賑やかに連れ立って式場を後にする中、脇を通り抜けた女子生徒の声が耳に入って来た。 「ねぇ、見た?思ったより普通!」 「えーでも優しそうじゃない?性格が大事だよ」 「ジュディ先生って綺麗だから面食いだと思ったのに」 「相手がお金持ちなんじゃない?」  ヒソヒソ声というよりも、普通のボリュームで彼女たちは楽しそうに話している。僕は一瞬だけ思考が停止した。それはどう考えても恋愛の話で、僕の大切なジュディ・フォレストに関連する内容のようだった。  慌てて、その同じクラスなのか違うクラスなのかも分からない女の子の腕を掴む。ビックリして振り返った彼女に僕は問い掛けた。 「ごめん、それってなんの話?」 「え?」 「いや……ジュディ先生の名前が聞こえたから、」 「あ、ああ…ジュディ先生の結婚相手のこと。今日で先生、学校辞めちゃうんだって。結婚するらしいの」 「ホールに残って二人で挨拶してると思うから、気になるなら見てみたら?」  普通だけど、と隣に立つ女子が付け加える。  僕は礼を言うと踵を返してその場を去った。  役目を終えた式場は祭りが終わったあとの広場のように閑散としていた。ホールの隅で円を作って話している集団はきっと教師たちなのだろう。真ん中には花束を持ったジュディ先生が居て、隣には丸眼鏡の男が寄り添うように立っていた。  ジュディが何か言葉を発して、他の教師が拍手を送る。照れたように笑う二人の姿から、僕は自分の心の中心にあった大切なその気持ちがもう何の意味も持たないゴミに成り下がってしまったことを知った。  それからの記憶は断片的だ。  どうにか教室に戻って、ジュディ本人の口から退職すること、そして結婚して家庭に入ることを聞かされた。生徒たちは皆祝福の声を上げて喜んだ。彼女は目に少し涙を浮かべて、一体となって自分を祝ってくれる愛する生徒たちを眺めていた。  僕は、というと。  胸にぽっかり空いた喪失感をどうやって埋めれば良いのか分からず、そして張り切って登校してきた自分を惨めに思って、泣きたい気持ちだった。何度も浮かぶのは幸せそうにお互いの顔を見ながら笑い合う二人の姿。  この先何十年もの間、ジュディ・フォレストという人間と喜びを分かち合い、共に困難に立ち向かう権利を彼は手に入れた。その愛らしい唇にキスをして、悩ましい身体に己の遺伝子を遺すことができるのは彼ただ一人だけ。  吐き気がした。信じられなかった。  思えば何の根拠もなく彼女に恋人は居ないと思っていた自分は阿呆なんだけど、それでも、こんな形でその事実を知ることになるとは神様は残酷だ。僕はもう二度と教会にお祈りになんて行かない。 「ヴィンセントくん、」  他の生徒に混じって教室を出ようとした際に、ジュディに呼び止められた。 「……なんでしょうか?」 「えっと…卒業しても、強く生きてね。貴方は優しくて良い子だと思うの。そのことに気付いたら、きっとみんなヴィンセントくんのことを好きになるわ」  この期に及んでまだそんな持論を展開するジュディの身体を押さえ付けて、思いっきり口付けてやりたかった。彼女が抱く僕のイメージをぶち壊して「貴女は何も分かっていない愚か者」だと教えてあげたい。  でも、それは犯罪だし、愚か者は僕の方だ。 「先生もですか?」 「え?」 「優しくて良い子が、先生も好きなんですか?」  あの男をそんな理由で選んだんですか、と言いそうになったけど流石に踏み込み過ぎだと思って止めた。ジュディは満開の花みたいな笑顔を僕に向ける。 「ええ。私も思いやりのある優しい人が好きよ」  彼女はきっと、自分の結婚相手を思い浮かべている。  これは想像じゃなくて本当に。  恋というものはまったくもって甘くない。苦いし辛いし舌が痺れて千切れそうだ。何度も恋人を変える人は毎度こんな苦しみを味わっているのだろうか。とんだマゾヒストだし、僕は死んでも御免だ。  僕が経験する本当の恋はこれで最初で最後。  大切に大切に鍵を掛けて墓場まで持って行こう。  秘めた思いを押し殺す僕に、ジュディは結婚式への招待状を渡した。淡い水色のカードに天使が飛ぶイラストが描かれている。至極自然な笑顔で受け取りながら、意図せず言葉は口から零れ落ちた。 「先生は、本当の恋を知っていますか?」  僕よりも年上で大人な彼女にこんな質問をするのは馬鹿げている。結婚を控えた女性への質問にしては失礼だ。早くも後悔を滲ませる僕の目を真正面から見て、ジュディは答えた。 「もちろん。私たちはその恋の末に結婚したの」  花のような微笑みを僕はきっと忘れることはない。  祝福なんて到底出来ないけれど、彼女には生涯その根拠のないぬるい幸せの中に居てほしいと思った。
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