【前日譚】彼女はまだ本当の恋を知らない 五年後

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【前日譚】彼女はまだ本当の恋を知らない 五年後

「どうだ、ヴィンセント。お前に頼めそうか?」  僕は目の前で脚を組む男の目を見つめた。  くたびれた紺色のスーツは先代からの譲り物らしく、皆が知る高級な腕時計が無ければ、人は彼のことを職を失った貧乏人だと思うんじゃないだろうか。  アル・パレルモはノルン帝国に古くからあるマフィアの組織を牛耳るボスだ。パレルモファミリーと呼ばれるその中堅組織に僕が拾われて、早いものでもう五年が経つ。  僕はもう一度、渡された写真に目を落とした。  写真の中で穏やかな笑みを浮かべる男は、その片手を隣に立つ女性の腰に回している。女性はブラウンの髪を肩より少し下で切り揃えて、男と同様に優しげに笑っていた。僕は指先に力が入らないように注意して、顔を上げる。 「引き受けます。僕はパレルモの犬ですから」 「良い返事だ、お前のことは信用している」 「この女性は妻ですか?美人ですね」 「気に入ったか?用があるのは男の方だけだ。あとはお前の好きにしてくれて良い」 「なるほど、それは嬉しいです」  喜びが必要以上に顔に出ないように、気を付けながら写真をジャケットの内側に仕舞い込む。 「ゴーダがお前のことを愚痴っていたぞ」 「へぇ、なんだろう。僕は色んな人の恨みを買うので」 「自覚があるクズは手の施しようがないな」  アルはそう言って溜め息を吐くと、タバコに火を付ける。お前もどうだと勧められたので、一本貰ってその癖のある香りを吸い込んだ。ゴーダというのはパレルモに属する強面の大きな男で、彼からの不平不満は日常茶飯事だ。  目を閉じて、彼女のことを考える。僕の名前を呼ぶ声、歩くときの靴の音、長い睫毛の下で光る美しい双眼を鮮明に思い出すことが出来る。  僕はまだ、ジュディ・フォレストの亡霊に囚われている。  そして、どういう運命の巡り合わせか、彼女は五年という年月を経て再び僕の前に姿を現した。すっかり裏社会に馴染んだ僕の前に、殺すべき男の妻として。 「そいつの名前はベンシモン・マックイーンって言うんだが、なんでもウチの縄張りで違法風俗を運営しているらしい。女房が聞いたら泣くだろうな」 「それは驚きですね、優しくて良い人そうなのに」 「バカ言え。実際はそういう奴ほど腐ってんだよ」 「うーん、大人って怖いですね」 「お前ももう二十三だろ」  そろそろ俺の娘のことを本気で考えてくれよ、と冗談とも取れない顔で言い出すから、僕は曖昧に微笑んでアルの部屋を去った。マフィアの娘と同じ家に住むなんて剣山の上で眠るようなもの。  僕はもっと平和に暮らしたい。朝起きたらパンを焼いて、温かいコーヒーを淹れて一緒に飲む。夜眠る時はその日あったことを話し合いながら手を繋いで眠りに落ちる。  そんな暮らしを送りたい。  ジュディと共に、二人で。  来週のことを思えば、自然と気持ちは高揚する。  きっと一人では実行出来ないから、ゴーダあたりを連れて行くことになるのだろう。仲間割れして目的地に着く前にどちらかが死ぬなんてことになったら終わりだ。  ベンシモンは丸眼鏡の奥で驚きの表情を見せてくれるのだろうか。楽しみで仕方がない。五年前にジュディの結婚式で挨拶をして以来だ。写真を見る限りでは、相変わらず幸せそうだったけど。 「待っててくださいね、先生」  夕焼けに色付く空の下を僕は上機嫌で歩く。  神様はまだ僕を見捨てていなかったみたいだ。  たまには教会に行ってみても良い、そう思えた。
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